ナウシカの絶望
ナウシカの絶望とは、あらゆる社会問題が『増えすぎた人間』にすべて原因があると考えた末法論。
左寄りの宮崎駿はマルクス主義が「増えすぎた人口による諸問題を理性と科学で解決するハウツー」でしか無いと挫折し、最終的解決とは人口を減らし所有の概念すらなかった原始に戻ることしかないという思想が見え隠れする。
最近、マルクス関連本と北一輝論とナチス関連の映画をインプットしすぎた僕の脳は、ナウシカの絶望とはまさしくこの決断にあったように思う。
何でもかんでも作者の人生や思想に作品の根源を求めようとするのは良くないと思いつつ、宮崎駿という大いなる自己矛盾の中で苦しみぬいた末の雄叫びをアニメとして表現することで生を得て、さらには世界的な文化人となったがそれにすら悪態をつく現代日本が生んだ虚無を考察したくなるのは人間の性である。
宮崎駿は戦時中に嫌というほど人間の醜悪な部分を吸い取りすぎた挙げ句、平和主義者ながら戦争兵器マニアとなり戦記物が大好きという歪んだ嗜好を持つが故に、アニメという表現世界でその矛盾を爆発させた。
純真無垢な子供は大好きだが大人は汚れていると毛嫌いし、自然を愛し東京はイカれていると言いつつも東京生まれで東京に暮らし続け、「うちの子、トトロが大好きで何回も見ているんですよ」と言われると「そんなもの見ないで外で遊ばせろ」と心中で叫ぶ、そんな人。
そんな純粋で人間嫌いでなおかつ理想主義者である宮崎駿の、もっとも正直な作品が「風の谷のナウシカ」だろう。
特に漫画版である。映画は原作漫画の序盤だけを切り取って映画化したものであり、AKIRAと同様全然内容が違う。
映画版、本当のラストはナウシカが王蟲に跳ね飛ばされて終えたかったのに、盟友鈴木敏夫と高畑勲に「あくまでも商業映画ですから」と説得され泣く泣くナウシカ復活にしてしまったら宗教映画っぽくなって嫌になったという。
漫画版は、そのアメーバ状に広がる世界観から素晴らしい作品であり、宮崎駿の虚無を一番捉えていると思う。
映画版では聖母のようなナウシカ(注:成人男性数名撲殺)であるが、漫画版ではまさしく軍神と化す。
風の谷を守りたいという意思が、あらゆる世界の有象無象を取り込んで、終いには人類の未来を背負って立つ大スペクタル化という名の大風呂敷となる。
神格化されていくナウシカは、映画版と違い非常に冷徹な決断を人類代表として下す。
腐海とは地球環境を清浄化するための人工物であり、ナウシカたち腐海と共に生きる人間たちはその環境に適応できるよう作られた人間であった。
要するに、腐海により清浄化された世界では生きていけないのだ。飲用可能な水道水で自然の魚が生きていけないように。
これは高貴なる先人たちが、戦争と自然破壊に対抗するために仕組んだプログラムであった。
ナウシカはその人類のプログラムを、いま生きている人間のために破壊したのだ。
結局、その未来にあるのは絶滅でしかない。
種としての絶滅を、ナウシカは勝手に受け入れたのだ。
そのために、神格化されていく自分のカリスマを用い、人々を死出の航海へと先導する。
ここに宮崎駿の絶望を感じるのだ。
その絶望の語り部は、トルメキア王国ヴ王と土鬼諸侯国連合帝国神聖皇帝(皇兄)ナムリスである。
この異常な権力欲により人類を滅亡させるような戦争を平気で行う血も涙もないマキャベリストたちは、しかしながら言っていることは至極真っ当に聞こえてくるのだ。
この二人は、人類の絶望が必然だと達観している。人間は性悪説であり、それが人間という生物本来の性質であるため、あとからどうこうすることはできないと悟ったわけだ。
ナウシカが知った絶滅プログラムの存在を意識することもなく、初めからこの絶望を受け入れているのである。
この絶望は、「人口が増えすぎたから」という後戻りできない問題に直面している。
サピエンス全史も提示した原始ユートピアだ。
原始の時代、人間は本来の環境で本来の生活をしていた。農業が始まり、定住革命、農業革命を経て、文明化していったのは根本的な間違いだったのだ。文明化によりもたらされたのは、結局人口爆発と資本主義であった。
現代の生活が、如何に人間にとって異常なのかは言うまでもないだろう。
そして、現代にある諸問題のすべてが「人口が増えすぎたから」という一言で説明できてしまう。
格差も、自然環境破壊も、差別や難民も、紛争や戦争も、コロナウイルスも、結局原始時代には存在しなかったからだ。
マルクスが私的所有の否定を挙げたのは、非常に革新的であったと思う。
所有の概念こそ、原始と現代を分ける境界線だからだ。
それでは原始時代はユートピアなのか?
それは現代の物質社会に適合した我々には、到底生きることができない過酷な生活である。
原始の世界は、移動型狩猟採集生活である。すべてが平等で、自然は豊かで、労働時間は少なく、個々の人間は今よりずっと強靭で本来の能力を発揮できる環境下で暮らしていた。
だがこれは、日本列島に1万人くらいしか住んでいない人口密度だからこそできたのである。
現代のアマゾン少数民族を見てもわかるが、この平等社会では平等を守るために子殺しや不具者の殺害を厭わない。移動しながら環境に合わせて生活するため、人口はある範囲内に維持され、付いてこれないものは容赦なく排除される。これは今でも行われている。
故に、生き残った人間は「強かった」のだ。これを現代で実践しようとしたのがナチスである。もちろんイデオロギー面が強すぎて、本来の意味ではないが。
この人間本来の生活と平等というのは、ナチスも共産主義も再現できなかった。もちろん、民主主義や資本主義はそれを最初から諦めている。
ヴ王やナムリスは、チャーチルの「民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが」という名言で表される諦めを受容したスターリンとヒトラーだ。
結局の所、腐海による清浄化システムを構築した先人の判断こそが一番現実的だった。
戦争や自然破壊により、地球もろとも絶滅するくらいであれば・・・である。
現代のいわゆるリベラルアーツな人たちも、より深く掘り下げていくと同じことを言っている。
そして面白いことに、トランプも似たようなニュアンスのことを語っている。
結局、人間が増えすぎたのだからどうしようもないじゃないかと。
そのどうしようもない問題の最終的解決を拒否し、ズルズルと問題を長引かせ最終的な局面で滅びることも致し方ないと突っぱねたのがナウシカだ。
これこそ、絶望だろう。
ナウシカは、一部の選民思想家たちの勝手な権利を否定し、だがしかし人類の未来を何の権利も持たずして勝手に決めてしまった。
これはどちらが正しいのだろうか?
種、そして環境を思えば、今すぐ人類が滅亡するか大激減するのは正しい。だが、それを決めるのは誰かという問題、そして人類と地球の天秤を見計らうのは誰かという問題、そしてその「誰が?」問題は結局、未来永劫決めることができないという問題。
ナウシカの決断は、まさしく問題の先送りであり、その先の終点もわかっている。
あの神々しいナウシカは、現代人そのものである。
我々は、自分の子供や子孫たちを搾取してこの豊かな生活を謳歌している。もちろん、そこには数多の生物、そして地球がある。
だがこの生活をやめることができるのか?それは不可能だ。グローバル経済は、その可能性を完膚なきまでに破壊した。
我々は死に近づいている。人類や地球はいずれ滅びるのはわかっているが、それがいつなのかは我々の行動により変化する。
ナウシカは結局、後回しにした。ナウシカは未来の子どもたちに死刑判決をしたのだ。
それでも刹那的な今を手にしたナウシカは、神のように崇められ、あれからそのように人類を導くのであろうか?
「パラサイト」格差社会の本質と民主主義の欺瞞
やっと見たよ『パラサイト 半地下の家族』
韓国映画らしい人間のドス黒いところをにしりつけるように刻印した濃厚ドラマ。
この映画は公開時からいわれているように、「格差社会」がテーマとなっている。
だが、単なる格差社会ドラマでもなく、ドキュメンタリーでもなく、オマージュでも皮肉でもない。
これは格差社会をフィルターにした「民主主義の欺瞞」を表現した映画なのだ。
そこのところを解説してみよう。
高低差とニオイ
まず金持ち夫婦の大豪邸と半地下の極貧賃貸物件の対比。
また高台の高級住宅地とスラム的な貧困街。
高低差をとことん表したシーンがこれでもかと出てくる。
階段の上り下り、長い坂、立ちションする親父をしたから眺める構図、同じソウルが舞台なのに全く景色が違うのだ。
高低差の景色ではない。目の位置が違うだけで、ニオイが違うのだ。
パラサイトで一番描写されているのは『ニオイ』だ。あえてのカタカナ。
高いところは空気が澄んでおり、低いところには便所のニオイが溜まっている。
このニオイは、半地下家族がいくら取り繕うと消すことは出来なかった。
バカにしていた金持ち家族の子どもにすら見破られるニオイ、このニオイの描写は糞便や便所コオロギが見事に視覚化してくれている。
ニオイというパーソナルな象徴は、格差社会の対比であり、もっとエグい部分を料理するための最適な材料なのだ。
終盤の洪水のシーン、高台から流れ出た水は汚水をかき集めて貧民街へと流れ行く。
高台の人間はこの「結果」を想像すらしていないだろう。
同じ「大雨」によって、かたや温かい食べ物を食べてくつろぎ、かたや糞便にまみれてなけなしの財産を担いで蠢く。
この高低差はニオイを固定化し、それは格差の拭いきれない本質なのだ。
格差と民主主義
民主主義は「人間皆平等」が土台にある。
投票権は平等であり、自由が保証されている。
そうだろうか?
昨今のトランプ現象、黒人差別、EU離脱、日本のコロナ騒動・・・本当に我々は自由で平等なのだろうか?
民主主義とは、結局のところ上級国民が優雅に暮らすためのハリボテなのではないか、そんな疑念が大衆に蔓延している。それが昨今の政治問題だ。
コロナ騒動では、日本という国がどのように運営されているかがわかりやすいカタチで暴露された。
要するに、後生大事に「自由と平等」を信じていたのが馬鹿らしくなったのだ。
この「馬鹿らしさ」をこれでもかと演出したのがポン・ジュノ。
金持ち家族は洗練されていて、落ち着きがあって、いつも綺麗。
金があれば感情は抑えられるという描写があるが、まさにあの落ち着きとは余裕なのだ。
で、何が余裕なのかというと経済的に豊かということだけではなく、『自分たちは裕福だ』という階級意識である。
この階級意識を表立って出すことはタブーである。
金持ち家族は当たり前にそれを自認しており、だからこそ「自由と平等」を原則とした態度なのだ。
だが、半地下家族はパラサイトしつつ、少しずつこの「違い」を明確に意識させられる態度を見てしまう。
半地下家族は、この金持ち家族をバカにしていた。金持ちは単細胞でシンプルだと。
しかし、そんな金持ち家族はシンプルに貧困層を見下している。
差別や嫌悪や嫌味ではなく、シンプルに動物的に見下しているのだ。
この「自由と平等」を体現しているような金持ち家族の反射的な差別意識、無意識で悪意のない差別意識、これが半地下家族の人間としての尊厳をチクチクと刺してくるのだ。
「自由と平等」の民主主義は、結局のところ上級国民が優雅に暮らすための原料であり搾取構造の根幹なのだ。
一部の富裕層が、大多数の貧困層の上で安らかに余裕ある暮らしをしている。貧困層はそれでも、「自由と平等」の民主主義を小馬鹿にしながらも認めている。
そんな疑念を、半地下家族、特に父親ギテクは感じ取っていた。
半地下家族と地下住人
とある一件で、半地下家族は地下にさらなる「貧」があることを知る。
自分たちが追いやった元家政婦の夫グンセが、地下でひっそりと暮らしていたのだ。
それは半地下家族が苦しんでいた貧困の、格差社会のさらに深い闇であった。
そして半地下家族が今の生活を手にするために追いやった存在でもあった。
格差社会とは競争なのだ。誰かが上に上がれば、誰かが落ちる。
半地下家族は、自分たちが恨んでいた格差社会の構造に自分たちが喜んで手を貸していたことに気づくのであった。
長男ギウはパラサイト計画の発端である自分に責任を感じ、地下の住人グンセを殺害することを決意する。
なぜか?それは「逃げ」なのだ。
パラサイト計画はそもそも格差社会へのアンチテーゼ、反乱であった。
だから彼らはロビンフッドだったのだ。馬鹿な金持ちを騙して「本来自分たちが享受しても良かった権利」を奪う。
しかし、この大義名分は地下の住人の存在によって瓦解した。
半地下よりもっと下層の世界がそこにあり、半地下家族はそれを「知らない」ふりをしていたのだ。
彼らは格差社会の見事な構成員だったのだ。
映画史に残る同情
最後の金持ちパーティーシーン。
半地下家族は、パラサイト生活によって身に余るほど感じた「差別意識」に苦しんでいた。
金持ちたちは、自分達の存在すら完全に否定していたからだ。それも悪意なく。せめて悪意があってほしかったのだろうか?
地下の住人グンセは、結果的に妻(元家政婦)を殺した半地下家族に復讐するためにナイフを手にし襲いかかる。
長男ギウは頭を石で殴られ、長女ギジョンは胸を刺され、妻チュンスクが取っ組み合いとなる。
グンセの怒りは、半地下家族に向けられたのだ。
それは妻の復讐であり、同類であるはずの自分たちへの扱い=存在しない存在化。
存在しない存在化こそ、格差社会の本質なのだから。
父親ギテクはこの修羅場の中で、本当の格差社会を知る。
金持ち家族は、家政婦や家庭教師がどうなろうと知ったこっちゃない。
誰一人助けようとせず、我先に逃げたのだ。
妻チュンスクは辛うじてグンセを刺殺した。
金持ち家族の父親ドンイクは、グンセに近づくと反射的に鼻をつまんだ。
地下の住人のニオイに耐えられなかったのだ。
その姿を見た半地下家族の父親ギテクは、反射的にドンイクをナイフで刺し殺す。
なぜか?
グンセは子どもたちに危害を加え、妻を殺そうとしていた。
にもかかわらず、ギテクは彼に同情したのだ。
こんなことあるか?
個人的感情より、ギテクは格差社会の恨みを取ったのだ。
積み重なった差別意識による自尊心の破壊、それが同情と交わり、凶行に及んだ。
自分の家族を傷つけた男に同情して。
まとめ「差別とは」
世界を賑わす差別問題の本質がここにあるのだ。
金持ちたちは如何にも差別などないように振る舞っている。
金持ちは「自分たちは皆と同じ人間だ」という顔で優雅に暮らしている。
だがそれこそ彼ら彼女らが行っている差別なのだ。
だから格差社会問題、人種問題は簡単に解決しない。
下のものがいるから上のものがいる。
まず0があり+と-はあるのだ。確かにあるのだ。
それを認めないのが民主主義だ。しかし、その民主主義を大きな嘘で塗り固められている。
その嘘に世界は怒っているのだ。
ニオイだ。
ニオイを明確に感じ取ったような顔、顔、顔、世界はそれに怒っているのだ。
だがそれは民主主義=資本主義から搾り取った甘い蜜を享受している上級国民は気づかない。
なぜなら彼らは民主主義=資本主義のおかげで豊かなのだから。
そして現在の社会構造の上部と下部を分ける最大の原因がまさにそこにあるのだから。
パラサイトが抉り出したのは、社会の構造の最暗部にあるニオイ立つ腫瘍。
腫瘍は集団=文明社会の歪の象徴であり、人間を不平等にしている原因であり、そしてそうでもしなければまとまることができない人間という生き物そのものである。
でも地下の住人の夫婦が北朝鮮をパロってるところが、この映画最強のブラックジョークなんだけどね。