「オリガモリソヴナの反語法」の感想
新生児と暮らしているとなかなか本が読めない今日このごろ。
そんな読書とは無縁の日々が続いた挙句、厳冬に「オリガ・モリソヴナの反語法」を読んだ。
なぜ手に取ったかというと、某サイトですごく押されていたからだ。
最近、ネットサーフィン中に良き本との出会いが同時多発的に巻き起こっているので、我が積ん読の山の構成員と相成った初の米原万里著作である。
目次
真冬に読むべきは収容所文学
「暑いときにこそ、熱いお茶を飲め」とか「寒い時は寒中水泳」なんていうおばあちゃんの知恵袋的民間療法は何だか体育会的根性論過ぎて、文系低血圧な僕には向いていない。
しかし、僕は寒がりだ。
そんな時は、度を越した「寒さ」の本を読むことにしている。
中でも骨身にしみる寒さと言えば、「収容所文学」である。
収容所文学とは、ソビエト連邦というかつて存在した真っ赤なくせに非常に寒い国のラーゲリ(強制収容所)が何かしら関わっている著作のことで、僕が勝手にそう呼んでいる。
ラーゲリとは、ソ連の政治犯や捕虜を、今のロシア周辺のむちゃくちゃ寒いところにぶち込んで凍った黒パンと味なしスープだけで働かせまくって殺しまくったという人類最悪の負の歴史の一つである。
特にスターリン時代には、何の罪もない一般市民が、ほんの些細なことで(外人と文通、西欧の格好をした、彼の方と目があった)秘密警察に連行されて、銃殺、良くても強制労働八年なんて食らうのが日常茶飯事であった。
とにかく今の平和な時代では想像できない人権もクソもない話である。というか労働者のための共産主義国が電通もびっくりなブラック国家だったのは歴史の皮肉である。
「オリガモリソヴナの反語法」もそんな収容所文学であり、その中でも『本当に日本人が書いたのか?』と驚愕してしまう偉大な収容所文学だといえる。
※おすすめ収容所文学は最後の方で紹介してます。
オリガモリソヴナの反語法の舞台
小説は3つの時代と舞台によって構成されている。この使い方が非常に上手いのだが、少し歴史を知らないと「?」だらけでフルシチョフに批判されることだろう。
①スターリン時代(1930年代~1953年)
②1960年代のチェコのプラハ
③1992年ソ連崩壊後のモスクワ
この3つの年代が非常に絶妙だ。
主人公は志摩という日本人で、父親の仕事の都合で②の時代のチェコのプラハでソビエト学校で過ごす。
そこで志摩はたくさんの友人と、強烈なダンス教師「オリガ・モリソヴナ」に出会う。
オリガ・モリソヴナは自称五十代だが、七〇にも八〇にも見えるおばあさん。だが冷戦時代にも関わらずド派手な格好と傍若無人な振る舞いで強烈なインパクトを周囲に撒き散らしていた。
ちなみに「オリガモリソヴナの反語法」とは、オリガ・モリソヴナがダンスのレッスン中に、下手な生徒をあえてべた褒めすることを指す。
オリガ・モリソヴナとその友人エリオノーラ・ミハイロノヴナは謎多き人物で、志摩や友人たちはその謎にとても興味をいだいた。
そんな楽しかった日々は、志摩の日本への帰国によって終わる。
時代は③のソ連崩壊後。
子育ても一段落した志摩は、「ロシア」の首都モスクワに旅をする。
目的はかつての友人たちを探すこともあったが、最大の理由はあのオリガ・モリソヴナの過去を知るための旅であった。
旧友やオリガ・モリソヴナを知る人達の協力を得て、オリガ・モリソヴナの過去を探っていくと、オリガ・モリソヴナは①スターリン時代に銃殺されていたことがわかり・・・
てな具合で、歴史の闇を暴く大推理が始まっていく。
この小説はネタバレ一切厳禁なので、これからは考察。
オリガ・モリソヴナと人間賛歌
「オリガ・モリソヴナの反語法」は、スターリン時代の暗部を非常にうまく使った推理小説だと思う。
人類史上でも異端すぎる悲劇の中でも、過酷に生き抜いた女の意地が、陳腐な反戦ヒューマニズム臭くない、重厚かつ原初的な人間賛歌へ見事走り続ける。というか、走り去っていく。
オリガ・モリソヴナの湯婆婆(僕のイメージ)みたいな強烈なキャラクターも、過去を知ると、過酷な経験によって「そうなった」という人間の年輪のようなものがはっきりと捉えられる。それくらい人物描写は簡潔だが完璧なのだ。
エリオノーラ・ミハイロノヴナという女性の存在も物語に燦然と輝く。
こちらはオリガ・モリソヴナと真反対な貴族のような優雅さを持つ老婦人。
半分、認知症のようだが、その認知症のような姿こそ、オリガ・モリソヴナとは違う種の人間の強さを感じることになる。
後出しジャンケンな今の世だからこそ言えるのだが、この人間の強さを描く最高の舞台が皮肉にもスターリン時代のラーゲリなのだ。
富や名誉どころか、家族からも引き剥がされ、家畜のように列車に積み込まれる。
収容所文学の見どころ?はこの列車での輸送である。厳寒のシベリヤや中央アジアまで、何の暖房設備もない列車に、すし詰めにされて送られる囚人たち。
囚人といっても、ほとんどが無罪か無罪の囚人の家族なのだ。
突然すぎる世界の変化による絶望は、如何程だったのだろうか?
身に覚えがないことで家や財産から追われ、家族に連絡する暇もなく連行される。
人間的な全てを奪われ、まさに家畜のように扱われるのだ。
そんな中でも何とか生き抜こうとする人間の凄み、そしてそこから敗れ去る人間の弱さ。
物語の冒頭のオリガたちの姿が、読み終わると全く違って見えてくるのは、そんな過酷な日々を追体験できたからだ。
後悔しきれない大きなものを失っても生き抜いた二人だからこそ、人間の持つ強さと弱さを超えた存在感を放つことができる。
この冒頭と終盤の大きなギャップから感じたことこそ、「オリガ・モリソヴナの反語法」の持つ最大のテーマであり、それは読む人によって違う答えがある。
ラーゲリで起きたであろう無数の物語を、オリガとエリオノーラを主軸に紡いでいく手法は、小説における超絶技巧なので必読だと思う。テンポが早いのだが、一発一発芯に来る重いパンチなので、読書好きにはたまらない時間になるだろう。500ページあるが、僕は2日で見た。
戦う女性像と米原万里
オリガたちの人生を推理する志摩たちも含め、とにかく女性ばかり出てくる小説でもある。
そしてこの小説に出てくる女性は兎角なにかと戦っている。オリガたちだけでなく、バツイチ子持ちの志摩や友人カーチャも。
女性が戦うというと、某党の代表のようなイメージかもしれないが、そういった見せかけではなく、人生とガチンコしているのだ。
このガチンコ感が所々で強く押し出ている。少女のようなエネルギッシュさと、ふとした瞬間の悲しさ、そして反骨心。宮﨑駿の描く強い女性像のそれに近い。
特に志摩の描写がうまいと感じた。
志摩はオリガのようなダンサーになる夢破れ、若く結婚し、そしてバツイチ子持ちとなる。オリガに比べれば、何てことない平和な人生だが、この小説ではそれでも戦っている志摩をオリガと対比することで描いている。
全く条件は違うものの、何か意地を張ってでも戦っている姿が目に浮かぶ。
こういった小説では普通、「昔の人は大変ね。今は楽だわ~私ダメだわ~明日から頑張ろっと!」といった話で尻すぼみするのが常であるが、作者である米原万里の前ではそれは通じない。
米原万里は初お目見えであったが、かなりのインテリで、主人公志摩の経歴は本人とほぼ同じ。ちなみにオリガ・モリソヴナは実在する(小説のオリガと経歴は全く違う)
そもそもこの小説も、ノンフィクションにする予定だったとか。
米原万里は、父親が共産党の議員であり、本人も共産党に在籍していたこともあるようで、なんかそれっぽい女性像が頻出するのも頷ける(^O^)
若くして亡くなったのは、非常に残念だ。
まとめ「収容所文学の傑作」
寒い時期に読む収容所文学が最高だ。
こんな日本の冬くらいでへこたれてはならんと、背骨がキュッとなる。
久し振りすぎる小説一気読みであったが、今まで見た小説10傑に間違いなく入ると思う。
ちなみに収容所文学のオススメも書いておこう。
こちらは収容所文学の聖典。
ソルジェニーツィン先生だと「収容所群島」の方が良さそうだが、非常に長いのと暗すぎて途中で挫折したので。
「イワン・デニーソヴィチの一日」は、収容所の一日をただただリアルに書いた小説で、収容所の生活を知るにも、そして文学的にも最高である。
とにかく何か食いたくなってたまらなくなる本でもある。
そして社会とは?権力とは?人間とは?と頭も痛くなってくる名著。
こちらもラーゲリが出て来る、サイコサスペンスモノ。
連続殺人鬼に立ち向かう主人公家族の姿がかっこいいが、ラーゲリへの輸送の辛さは見ていて吐きそうになった。
続編はまだ見ていないので、今度読んでみよう。
こちらはスターリン時代のラーゲリよりも、もっと前の元祖収容所文学。
至高のドストエフスキー先生の名作。こちらは妻殺しで捕まった男のシベリア送り。
しかし暗いわあ~。
ドストエフスキーを読んで人間不信になったあの頃が懐かしい。
こちらは文学ではないが、そもそもなぜラーゲリができたのか?なぜあんな非人道的なことができたのか?なぜスターリンは権力者になれたのか?などなど、ソ連を知るための良書。
結局、市民のための革命だったのが、党の統治体制維持だけが目的化した挙句、権力闘争も絡んでいったソ連の歴史。つうか、だいたい赤色革命は同じ道を歩む。なぜか?それはあなた達の国はまだ農業国だからです。
「ソ連=党が所有した国家」もおすすめ。
おすすめリンク
nounai-backpacker.hatenablog.jp
ド田舎の職場が君を待っている~ド田舎の現状~
今週のお題「2017年にやりたいこと」
これはもう「仕事」である。
労働意欲がロシア軍の焦土作戦後くらい皆無な僕であるが、お仕事に燃えている。
なぜか?
それは、ド田舎の一会社のあまりの悲惨な現状を打破せざるを得ない使命感からだ。
なぜ労働意欲皆無の人間に使命感がほとばしるほど湧くのか?
それは、ここがド田舎だからである。
今回は、ド田舎の人材不足の現状とそれにより使命感に燃える一人の哀戦士の悲しい現状~それは日本の未来~を語ってみよう。
ド田舎、そこはどこまでも広がる荒野
僕は2年前、実家のド田舎に帰った。
僕のスペックはとある国家資格を持つ技術屋であり、その能力と言えば荒れる成人式に産毛が生えたくらいの意識の低さと、坂口安吾が引くくらい堕落した労働意欲、そしてなんだか一発逆転できるだろうという漠然とした希望的観測という名の美しい花を持つ三十路。
以前勤めていた会社では、とにかく来る日も来る日もルーチンワークにつぐルーチンワークで、脳内が完全にただのデンプンと化していた。僕は織姫と彦星よりも、土日を待ち焦がれ、ただ蒙昧で陰惨な労働への反動としてカビた青春を謳歌していた。勉強もせず。
技術屋であるため、与えられた仕事をパブロフの犬のようにこなすだけで事故さえ起こさなければよいので、特に経営や管理、法制といったお硬い業務は終ぞなかった。
ド田舎に飛来した僕は、ハローワークで休日が一番多いという理由だけで選んだとある医療施設へと就職した。ありがたいことに、我が資格はどんな田舎であろうと仕事はあるのだ。
就職してすぐ、僕は前任者に言われたことだけをのほほんと卒なくこなしていた。だがド田舎の上級民であるコウムイン様がいらして我が施設を隈なく調べ上げた結果、ロシアから敗退したナポレオンのようにボロカスのスッテンテンにされた。
もう見るも無残な管理体制だったことが、暴露されたのだ。就職した時に、特に研修もなく、ただ前任者の仕事を追従するようにいわれた時に怪しいとは思っていたが、その「怪しさ」は公によって公にされた。
詳しくは書かないが、イメージとしては「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のような世界観が広がる現状であった。
即即戦力+全権委任法
そんなことで、新体制を全く一から作り上げることになった。
ロシア軍が焦土作戦したあとの荒野に、渋谷駅を建てるような難事業である。
そしてここからド田舎スペックが暴走する。
我が部署には15名程度の職員がいるが、エクセルを使える・・・というかキーボードを打てる人材は僕を入れて3名である。
は?
このご時世、ド田舎では未だに紙への直接的アウトプットという手法が大手を振っている。コピペという名の時間圧縮装置を放置して、活版印刷にも劣る筆記という記録がまかり通っているのだ。
そんなことでエクセルを使えるだけで、僕は新体制を作るという難事業の責任者となった。指名されるわけでもなく。命ぜられるわけでもなく。『そうなった』のである。
ド田舎では『そうなる』のである。これはもう哲学的な存在論の範疇なのだが、見えない責任の押し付け合いという『エア・ドッジボール※もしくはエア・ハンカチ落とし』によって『そうなる』のである。
そしてそしてこれまたド田舎の特殊な事情だが、『そうなった』場合、『そうなった人』が全部やるのだ。もうそれでめでたしめでたしなのだ。なんせ仕事を頼もうにも、誰も最低限のことすら理解していない。法制や書類の作成事項など、とにかく知らないのだ。
そういえば、孫子先生曰く『彼を知り己を知れば百戦殆からず』という素晴らしいお言葉があるが、ド田舎では『彼も知らず己も知らざればやらなくて良い』というテーゼがスマホのように生活の一部として浸透している。都会もこの傾向はあろうが、ド田舎では比率が違うのだよ比率が!
ということで、僕は就職してわずか半年で一大プロジェクト、というか会社の未来すら担う最重要課題を満場一致で任された。
まさに見えない全権委任法、もはや一人大政翼賛会である。
ヒトラーもびっくりの大出世かと思いきや、内心は膨大すぎる仕事量によって途方に暮れた。
なんせ管理や運営に必要な書類、つうかマニュアルすら、「あーそれ、君が書いといて」「え?これ会議とか無いんですか?」「いーよいーよ、君しかわからないから」と言った具合である。
リアル明治維新だよ。坂の上の雲かよ。たったひとりの若者に会社の未来を賭けちゃってるよ。
ここまで来ると、僕がヤリ手の人材かと思われるだろうが、エクセルなんて学校の授業でちょっとやったくらいで、タイピングの速さはブログのおかげである。本業も言うまでもないので、もはや信長の野望マニアが乃木将軍の参謀として旅順攻略命ぜられるくらいの衝撃的人事である。
ド田舎は君を待っている。
そんなこんなで僕はこの日光猿軍団を使って新国立競技場を作るような難事業に邁進している。
そして今度、その結果の審判が下りるタイミングがある。幹部どころか経営者すら雁首揃えて「そうせい侯」なので、五里霧中でコンタクトレンズを探しているようなものだ。
どうだい!使命感が湧いてくるだろう?これで湧かなきゃクスリやってるよ。
今まで人に期待されることなど皆無であった人間が、急にシャア大佐のような扱いで3階級特進された挙句、もはやプロジェクトの先頭の辺にいるのだ。
数少ない有志で少しずつ作り上げているのだが、その数少ない有志もシャア大佐扱いなので自分の仕事で手いっぱい胸いっぱい。よって数少ない有志という精鋭部隊によって、何とか企業として成り立っている。その他は無言で追従者が半分、言われたことだけする者が3割、後出しジャンケンでいつも文句を言っているもの2割。
でも出世競争もないし、怖い上司もいない。あるのは、どこにでもある人間関係の面倒臭さくらい。昔都会で働いていた時に見たようなシェア争いはなく、仁義なき冷戦構造はないし、理不尽な上司もいない。
あるのは、荒野である。
僕が言いたいのは、ド田舎は人材難なのだ。業種も給料も少ないが、少子高齢化のビッグウェーブのおかげで人員人材難は加速度的に広がっている。
うちの施設も定年者を無理やり引き止めて何とかやっている現状だ。
さらに追い打ちをかけるようにパソコンどころかスマホも使えない人たちが、来たるIT化に(遅いわ!)ついていけなくなっている。でも世の中はとっくにIT化されているので、あらゆる基礎にITが染み込んでいる。お上から降される指示もネットからPDFダウンロードさせられる時代だ。「おい、このPDFというのはなんで字が書き込めないんだ」なんてセリフをエライ人から聞かされる身にもなってくれ。
・・・ということで、ド田舎は君を待っている。
都会で社畜となって自殺するなんてもったいない。
ド田舎は現代のフロンティアだ。みんな優しく迎えてくれる。
「え?なんで画面見ないで字が打てるの?」
「お~い。◯◯くんはパソコン使えるぞ!ざわざわ」
「え!?もう書類できたの?」
「あのぅ、[ウェ]ってどうやって打つの?」
「久しぶりに都会に行ったら人に酔った」
「久しぶりにUNIQLO行ってきた(車で60分)」
「SNSっていうサイトが見つからないんだけど」
「Amazonってのは、いっぱい商品を作っているんだね」
「うちの孫と結婚してくれ」
さあ、ド田舎へ行こう!ド田舎は君を必要としている。
まとめ「ド田舎は想像以上にヤバイ」
真面目な話、少子高齢化は半端なくヤバイ。
医療介護や運送業が足らないと言われているが、ド田舎ではインフラの維持すら危うい現状だ。
これはもう急務のはずだが、少子高齢化最先進国である日本の政治家はそんなことどうでも良いようだ。
だが大学も仕事も金もないから、若者が出ていくのは当たり前だ。
UNIQLOすら来ない市など、死に絶えて当然なのだろうか?
だが、現状このド田舎でも未だにニーズのないインフラ事業、特に立派な道路を何十年かかって作っていたりする。
大いなる矛盾である。
コンパクトシティという考えがあるが、そうせざるを得ないと思う。
これは、無駄な拡張は辞め、市町村の規模を縮小し、中心部にだけインフラや社会保障を投入するという考えだ。特に社会保障では、駅前にでっかいビルを建てて(中心部の空き家を使う)、限界集落の住人を住まわせるという案も出てるとか。
こうすれば人材や整備コストが大幅に削減できる。耕作放棄地に住む老人のために道路を作ったり整備したり、ただでさえ少ない介護スタッフを派遣しなくても済む。
ものすごい反発がありそうだが、ド田舎に住んでいると、もうそうしなければ日本中が夕張市になるであろう。
現状維持は緩やかな自殺である。もう人口は増えないし、バブルは来ないし、田中角栄はとっくに死んだ。
なので思い切った舵取りをしなければならないだろう。といっても、観光客を呼ぶとかそんなものではない。
親戚のおじさんが、「こんなド田舎に未来はない。だったら原発を何十基も作って都会に電気売って食うしか無い」なんていってたけど、トランプ現象の一端であろうか?
やっぱり縮小してでも地産地消で何とか自活できるようにならないと、未来はゴーストタウンか徘徊老人まみれのマッドマックスである。
我がド田舎の対策は・・・ない。思い浮かばない。石油でも掘るか。