映画『セッション』が教えてくれる「人を指導すること」について

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今週のお題「部活動」ということで、最近見た映画「セッション」を上げてみよう。

この映画はあの「ラ・ラ・ランド」の監督デイミアン・チャゼルの出世作にして、超低予算ながらアカデミー賞で5部門にノミネートされた下克上作品。

猛烈教師とそれに耐える生徒との戦いと、ひとつの道を極めるための困難さが描かれている名作。

そしてこの映画は、学生時代の部活動体験によって見方が変わる映画でもあると思う。

そんなことを書いてみよう。

 

目次 

 

鬼怖い先生

セッションという邦題の通り、本作は音楽がテーマとなっている。

ジャズドラマーを目指すアンドリューが主人公。彼はアメリカで一番優秀な生徒が集まる音楽学校にいる。プロの音楽家の登竜門である競争の激しい学校だ。

そこには超有名音楽教師テレンス・フレッチャーがいる。この教師は怒鳴る殴るは当たり前で、とんでもなく厳しい。だが、ただ体育会系のノリというわけではない。巧みに生徒たちの心理を操る恐ろしい男でもある。

テレンスはその名声と経歴を武器に、学校内でも王のように振る舞っている。彼のバンドは校内一であり、そしてアメリカで一番の学生バンドとなる。よってプロになるには絶対に立たなければならない場所だ。

テレンスは優秀な学生たちを競わせることで、自らのバンドのレベルを高めていた。だがその競わせ方が、生徒の心を全く無視した非道さがあった。

常に交代メンバーを控えさせ、少しでもミスしたり刃向かうものは直ちにバンドから外した。バンドメンバーの前で大声で侮辱し、存在を否定し、最後には泣かせてしまうことも多々ある。

彼のバンドは、恐怖と緊張によって、その高いレベルを維持している。

 

主人公アンドリューは、何度もテレンスに否定されながらも、時間だけでなく彼女まで犠牲にして喰らいつく。ドラムの腕は確実に上がったものの、アンドリューの周りからは誰も居なくなった。アンドリューにはテレンスのバンドの正ドラマーであることだけが、存在価値になっていた(そう仕向けられた)

最終的にアンドリューはとある失敗により正ドラマーの座から降ろされ、テレンスに殴り掛かり退学処分になる。

 

 

「セッション」と甲子園

セッション」では人生を賭けた目的のために、非道な教師にも立ち向かう青年アンドリューの姿が描かれている。アンドリューは、半狂乱になるまでドラムに心血を注いだ。腕は一流に近くなっていたと思う。

だが、アンドリューはテレンスによって潰された。テレンスは真の音楽家を育てるというよりも、アメリカ最高の音楽学校でも最高の教師という自らの面子のために存在していた。

テレンスに囚われ、ドラムに打ち込むしかなくなったアンドリューはどんどん消耗していき、最後には他人と正常に関わることが出来ないくらい攻撃的になる。そしてそんなアンドリューを、テレンスは自らのバンドにふさわしくないと打ち捨てた。テレンスは、結局自らの名声のために生徒たちを使い捨てにしていたのだ。

 

高校野球はまさにこの光景と同じような世界が広がっている。

日本のアマチュアスポーツ最高の舞台である甲子園は、巨額のカネが動く。マスコミは大いに盛り上げ、学校や名声が上がれば生徒は全国からやってくる、監督もその地位と面子が守れる。

桑田真澄やダルビッシュ有は、日本人投手が故障しやすいのはまさにこの舞台で酷使されることが大きな原因だと語っていた。

大人たちの事情で、酷使させられた高校生の身体には、選手寿命を縮めるほどの大きな傷が残ってしまう。

感動の一言で済ますには大きな代償ではないだろうか?

 

 

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どちらもプロを目指す檜舞台であるが、そこに立てるのは生まれ持ったセンスと、血の滲むような努力、そして苛烈な競争を勝ち抜けた者だけだ。

その舞台へ最後に引き上げてくれるのは推薦者である教師や監督だ

セッション」はその推薦者のあり方が問われている。推薦者であり指導者であるものの責任だ。厳しい指導でも良い。それが一流の逸材へと導くための助言であれば。

この映画の鬼教師テレンスは、恐らく私欲のための指導になっていた。そのため、指導には恐怖と緊張が必要だった。

アンドリューの退学処分後、テレンスは名門音楽学校をクビにされた。数々の生徒たちへの暴力や暴言が問題にされたためだった。

それから数ヶ月が経った。

アンドリューはテレンスと偶然再会した。テレンスはアンドリューと仲直りし、もう一度共にバンドの舞台に上がらないかと持ちかける。アンドリューは了承する。

そしてテレンスの復讐が始まる。

 

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初心忘るべからず

テレンスは、プロのスカウトたちも見に来る舞台の上にアンドリューを上げた。罪滅ぼしと受け取ったアンドリューだが、それはテレンスの音楽学校をクビにされた原因となる密告を行ったアンドリューへの復讐だった。

テレンスは、アンドリューに全く違う楽譜を渡していた。アンドリューは一人全く違う音を叩き、ステージで大恥をかく。テレンスはアンドリューを音楽業界から抹殺しようとしたのだ。

だがここでアンドリューは反撃に出る。舞台上で勝手に演奏を始める。曲はテレンスにみっちり叩き込まれた因縁ある曲キャラバン。怒るテレンスとざわめく会場を尻目に、アンドリューは渾身の演奏を行う。その演奏は次第にバンドメンバーや観客を巻き込み、あの宿敵テレンスは・・・

 

最後の場面は映画史上屈指の会合シーンであり、有音版スラムダンク最終巻なので、必見である。

結局、テレンスも音楽が好きなのだ。同じ音楽でもかけ離れた場所に居たテレンスとアンドリューが、その音楽に引き寄せられるように会合していく。

音楽に限らず、長年一つのことを行っていると、初心の「思い」を忘れがちになる。仕事や指導者の立場にでもなれば尚更だ。最後のテレンスの表情は、音楽への初心の感動や憧れが少しずつこみ上げていく(名演)

ときに厳しい指導も必要だが、本来何を伝えるべきかを忘れてはならない。自らの地位や面子を守るためだけの指導だと、アンドリューのような悲劇が起こる。指導を受ける(耐える)ことが目的ではないのだ。

部活や教育だけでなく、仕事や家庭でも同じことが言えるはずだ。これは非常に難しい。だが、恐怖や逃避で誤魔化しても、指導を受ける側にはお見通しなのは経験済みなはずだ。

 

 

まとめ

 

ハリウッド映画にしては金の掛かってなさが鼻につくくらい狭くて暗い映画だが、ここ数年だと絶対挙げなければならない映画の一つだと思う。

「邦題セッション=原題Whiplash」だが、間違いなく原題が正解だろう。

音楽映画と思わずに、社内研修で見てほしいくらいのブラック企業の胸が痛む映画だ。

 

 

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家族映画としてみる「ゴッドファーザーⅡ」~ビトーとマイケルの違い~

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ゴッド・ファーザーPART2」を再見した。

かの映画は、語るまでもない名作、しかも続編モノの数少ない傑作という伝説的存在である。

この名作をマフィア映画としか思っていない人が多いが、これは純粋な家族愛をテーマにしたシチリア移民版サザエさんなのだ。

マフィア映画ではなく、家族愛をテーマとした視点で考察をば。

 

 

 

 

偉大な父、不器用な子

主人公はアル・パチーノ演じるマイケルである。

マイケルはとにかく不器用で不憫極まりない悲しい男だ。

マイケルは偉大な父ビトー・コルレオーネから、シチリア移民マフィアのドンの座を継承する。

ビトー・コルレオーネは貧しいシチリア移民の身から、一代でアメリカ五大ファミリーの一角に陣取る巨大組織を作り上げた男だ。

マフィアのドンでありながら、家族や部下はもちろん市井の人々からも大いに尊敬されていた。

 

そんなビトー・コルレオーネには四人の子供がいる。

短気で暴力的な長男のソニー、優柔不断で見栄っ張りな次男フレド、大学出で冷静沈着な三男マイケル、感情的で好色な長女コニー。(キルゴア中佐は置いておきます)

誰も一癖ある子どもたちだが(どんな教育してたんだ)、ビトーはそんな子どもたちからも尊敬され、仲睦まじい家族を作り上げていた。

長男ソニーが抗争のため命を落とし、ビトーもその後亡くなる。

あとを継いだ三男マイケルは、偉大な父が作り上げたファミリーを守るため、マフィアの世界へ歩み出す。

 

マイケルはすぐに頭角を現し、ビトー以上に闇社会で成功する。

だがファミリー、特に家族は、そんなマイケルから少しずつ心が離れていく。

偉大な父に近づき、ファミリーを強くし、家族と幸せに暮らしたいと願い必死に働くマイケルだが、その目的のために手段を選ばない冷酷さから、次々と周囲の人間が遠ざかっていく。

結局、妻と離婚し、そして最大の悲劇を迎える。

 

 

ビトーとマイケルの違い

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父と子の違いは、目的への手段だ。

ビトーは目的に向かう前に、必ず人々の面子を立てるように根回しをした。できるだけ後腐れなく、WIN-WINの関係の構築を目指した。時間はかかるが、ビトーは自分の縄張りの中では誰からも尊敬を受けた。

マイケルは目的に向かって最短距離で一気に攻め立てる。そのおかげでファミリーは急速的に成長するが、その分たくさんの恨みを買うことになる。恨みを買うことにより緊張が増す。マイケルはファミリーを守るため、さらに権力を得ようと戦い続けることになる。

ビトーは「関係」を手段として用いた。ゴッドファーザーとは、調整役として有能で公平なビトーに送られた言葉でもある。

マイケルは「恐怖」を手段に用いた。武器(資金)をちらつかせた交渉や、相手の弱みを握り、時に殺人も行いながら、パワーバランスを一気に破壊し頂点を目指した。

 

マイケルは、ビトーとの違いを「時代」と評した。

たしかに時代は大いに影響している。戦後好景気のアメリカでは、闇社会のビジネスが大きく転換(カジノやマネーゲーム)した。それに取り残されないようにするには、時間は大変貴重だった。

だが、父ビトーを慕う家族やファミリーには、マイケルの家族愛は冷酷に写ってしまった。

 

ここで大事なのは、ビトーとマイケルは全く同じ家族への愛があるということだ。

経済的に豊かになれば、家族はより幸せになる。ファミリーが強くなれば、家族は安全に暮らせる。そのために二人は戦ったのだ。

それなのに、マイケルは父と違ってどんどん恐れられ、孤立していく。

マイケルにしてみれば、父と全く同じことをやっているという認識しかなかった。

家族からしてみれば、どんどん闇社会で強権を振るうマイケルを恐れ、それによる復讐の連鎖を恐れた。

成功しているにも関わらず、偉大な父と比較され、孤立していくマイケル。

彼はこのギャップに最後まで気づくことができなかった。

家族もこのギャップを埋めることはできなかった。

これこそ、偉大なる父ビトーの残した負の遺産だった。

 

戦国武将の黒田如水は、死ぬ間際にやたらめったら家臣や家族に悪態をついたそうだ。

家臣に諭され悪態を止めるよう言いに来た息子長政に、如水は「自分が死した後に家臣たちがお前に忠誠しやすいよう取り計らった」と話したといわれている。

ビトーは完璧すぎる父のまま死去した。ビトーは、後継者指名の際に如水のように何か手を打つ必要はあったかもしれない。溺愛していたマイケルが、そのことで大いに苦しむとは、さすがのビトーも解らなかった・・・というところがこの映画の面白いところであり、タイトルの素晴らしさなのである。

 

 

 

構成で語る家族愛

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そしてこの異なる家族愛を、巧みな構成で物語っていくコッポラ監督の名裁き!

マイケルが孤立していく姿と、ビトーの出生から成功していくまでの足取りが交互の流されていく。

父が作り上げたファミリーを受け継ぎ、闇社会での成功とそれに反してバラバラになる家族、その苦悩を噛み締めるマイケル。逆にシチリアから逃げ出し、無一文の子供でしかなかったビトーが、人々の助けを借りながら成功していく様。

この落ちていくマイケルと、成り上がっていくビトーのエピソードが絶妙に交差していく。

妻や子どもたちが離れていくマイケル、子供や仲間がどんどん増えていく若きビトー、構成の妙でまるで親子が逆の道を歩んでいるようにみえる。

闇社会での成功と家族からの孤立というマイケルの物語、そのどちらも掴んでいくビトーの物語、これにより先程のギャップをより明確になる。

謂わばこのビトーの物語は、マイケルにとって呪いなのだ。

マイケルの目指すものこそ、若きビトーの物語である。だがマイケルは仕事・家族の両方を得ようとし、どちらも失敗していく。仕事では闇社会にどっぷり浸かっていき、家族はいなくなった。

この構成により、鑑賞者はマイケルに感情移入させられてしまう。

闇社会のドンに上り詰めたマイケルだが、最後まで偉大な父が作り上げた物語から決別することはできなかった。

エディプスコンプレックスに呑まれたマイケルは、結局のところビトーの亡霊に立ち向かおうとはしなかったのだ。

そこにこそ、マイケルの悲劇がある。

 

 

まとめ

 

まあ結局のところ最後にまとめると、若きビトー・コルレオーネを演じる若きロバート・デ・ニーロがカッコ良すぎというところだ。

四の五の言わず、刮目してデ・ニーロを見よ。

特に肺炎で苦しむフレドを心配そうに見つめるデ・ニーロの演技が素晴らしい。父親になって感じるデ・ニーロの深み。脱帽。絨毯盗んできます。

 

 

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