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「サピエンス全史」~なぜ人類はここまで発展できたのか?は三大革命で考えるとわかりやすい。

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

歴史本としては異例の大ヒットを記録した「サピエンス全史

少々お高いが、それに見合う革命的に面白い歴史本であった。

なぜ我々人間(ホモ・サピエンス)が地球の支配者として君臨しているのか?という素朴だが重大なテーマを、単なる網羅的な歴史年表ではなく、独自の解釈も交えて考察している。

歴史の「なぜ?」の根本を揺さぶる珠玉の名作だったので、解説と書評してみる。

 

目次:

 

ホモ・サピエンスの三大革命

我らがご先祖は、アフリカのサバンナで肉食動物のおこぼれに預かり何とか暮らしていた時代から、数万年かけて南米の先っちょまでたどり着いた。その間に、同じサピエンス親戚(ネアンデルタール人)や大型哺乳類達を絶滅させながら。そこからはご存知の「歴史」が始まる。

なぜホモ・サピエンスがこれだけ繁栄しているのか?という、歴史の根源的テーマを語るには、3つの革命を軸にするとわかりやすい。

 

①認知革命

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まず最初の革命は「認知革命」だ。

そもそもだが、ホモ・サピエンスは数万年も前からいっさい進化していない。

動物というのは、とてつもなく長い時間をかけて進化する。ネズミから人間になるまで、気の遠くなる年月が必要だったように。

なので、生物には生物学的特性の限界が存在する。ホモ・サピエンスがいくら努力しても、おそらく100mを8秒台で駆け抜けたりはできない。

 

だがそんな限界点を、ホモ・サピエンスだけはある能力で突破した。

ホモ・サピエンスの繁栄の最重要ポイントがこの「認知革命」だ。

それはまず言語に始まる。言語についての始原は諸説あるようだが、コミュニケーション能力は進化の途中ですでに得ていた。

だがイルカやチンパンジーと違い、ホモ・サピエンスのコミュニケーションは虚構』を作り出すという特異さがあった。

 

人類最強の武器「虚構」

ホモ・サピエンスのコミュニケーションには、2つの重要な点があった。

まずは「あの川の近くにライオンがいたぞ。危ないよ」というような情報共有としての手段。他の動物のような危険が迫った時の警戒音だけでなく、情報を混ぜることが出来た。

もう一つは噂話(フィクション)。この噂話こそ、社会性を持つ動物の必須条件だ。

だがこの2点だけでは、150人くらいの集団までしか維持できない(現代でも有効な数字だとか)

 

ホモ・サピエンスはここに「虚構」を作り出すことにより、大規模な集団形成(都市・国家・宗教)が可能となった。

虚構は、伝説・神話・宗教のようなものだ。ある神を信じることで、見ず知らずの人間同士でも連帯感が生まれる。例えば、見知らぬ人でも同じ野球チームやアニメが好きだとわかれば会話が弾む。キリスト教やイスラム教のように、グローバルな宗教が生まれるのも、この虚構のおかげというわけだ。

こうしてホモ・サピエンスは、一匹の動物としてはとてもか弱いのだが、大規模な集団を作ることにより、自然と動物に対して圧倒的な力で対応することができるようになった。

 

 

②農業革命

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1万年前、それまで小さな集団で狩猟採集生活をしながら地球上に散らばっていたホモ・サピエンスは、定住し農業を始めるようになる。

農業といえば説明不要の人類の生活においてかけがいのないものだと思うが、これは『人類史上最大の詐欺』であった。

たしかに農業によってホモ・サピエンスは現在の地位にいるといっても過言ではない。ホモ・サピエンスは、豊かになるために農業を始めた

だがホモ・サピエンスは身体の構造上、狩猟採集生活をするために作られていた

ホモ・サピエンスは農業という重労働により、ヘルニアや関節炎に悩まされ、慣れない穀物食のために虫歯や消化不良や低栄養に悩まされることになる。

 

ホワイトすぎる「狩猟採集生活」

今では不安定だと思える狩猟採集生活だが、農業よりもよっぽど楽で豊かだった

脳や精神(心)は、この狩猟採集生活によって培われ適応しているという説もあるほどだ。(そのために疎外感によるストレスや鬱病がある)

例えば、なぜ肥満になるか。これは狩猟採集生活だと、カロリーが高いものが少ないため、見つけ次第食べるようDNAにプログラムされている。移動生活で保存手段もないため、旬なものは無理にでも食べてしまうに越したことはない。だが現在の飽食の時代でも、このプログラムは有効だ。

他にも、狩猟採集生活では、コミューンで子供を育てていたため一夫一妻制などあり得なかった。だから離婚するのは当たり前だとも言える(※著者が言っているんだよ)

 

労働時間も狩猟は3日に一回、採集も一日3~6時間ほどで、家もないから家事は不要。食物も多様で、穀物など限られた品種しか食べていなかった農耕民より健康だった。災害や飢饉や疫病も移動しているため影響は少なかった。

 

なぜこんな豊かな生活なのかと首を傾げたくなるが、これはホモ・サピエンスが地球上で数百万人程度しかいなかったからだ。人口密集率は一人で数百キロなんてザラなのだ。そのため食糧は豊富にあったので、豊かなところへ移動していけばよかった。狩猟採集時代のご先祖様が今の東京に来たらなんというだろうか?

そしてホモ・サピエンス史上、最も生物レベル的に強かった「ホモ・サピエンス最強時代」はこの時期。肉体はもちろん、植物や獲物の知識量も半端なかった。そして弱い者はただちに殺されるか捨てられた。移動生活であるため、付いてこれないものは容赦なく殺した。この辺の話はヒトラーにも通ずる。

ちなみに現代人の脳は狩猟採集時代より、少し縮んでいるらしい。

 

農業=贅沢の罠

ではなぜホモ・サピエンスは、豊かな生活を捨て、きつくてブラックな農業定住生活に移行したのか?

それは1万8000年前に緩やかに始まった。

現在のイラク付近にあった野生の小麦を見つけたホモ・サピエンスは、それを採集して食していた。その運搬時に集落地に種がこぼれたり、原始的な焼き畑により高い木がなくなったことにより、小麦にとって有利な環境が作られた。初め、収穫期にだけ定住を初めたホモ・サピエンスは、次第に家や道具を作り始めた。そのうち、採集物の一部を貯蔵して種まきする事や、地面を耕したり、草抜きすることで、より小麦が育つことを覚える。このような原始的な農業が散発的に緩やかに広がっていく。

 

ここに「贅沢の罠」が生まれた。

農業は少しずつ改良することにより、確実に収穫は増えた。その分、労働はもっと増えた。これにより、(しんどいけど)頑張れば頑張った分だけ豊かになれるのではないかという虚構が生まれた。

 

農業=「今よりもっと良い暮らしができる」んじゃないか説

 

たしかに農業により、小麦などが安定して収穫できた。

移動生活を辞め、お粥を与えることで、出生率が飛躍的に上がった。お粥は母乳より栄養は少なく、免疫も弱いため感染症が生まれたが、その死亡率を出生率が大きく上回った。人口が増えることで、労働力も飛躍的に上がった。

だが、生活は一向に楽にならなかった。

単一食糧に依存するため、飢饉や災害の被害が増大した。定住や食物貯蔵により、外部の人間から集落を守る必要性が生まれた。

豊かになるどころか、心配事は増えるし、ますます仕事は多くなるではないか。

「給料が上がるって聞いたのに、休みはないし残業まみれで、とんだブラック企業じゃないか!」と怒って農業を辞め・・・なかったホモ・サピエンス。なぜか?

 

それは農業定住生活がブラック産業だと気づくのに時間がかかりすぎたためだ。

数千年に及んで騙されたせいで、もはや前の生活には戻れなくなってしまった。狩猟採集生活ノウハウは廃れ、人口が増えすぎて身動きが取れない。

ホモ・サピエンスが農業定住生活で苦しんだ結果、一番得したのは小麦だった。中東のペンペン草は、今や全世界で子孫を増やし続けている。

 

だが農業革命により、今日の社会が生まれることになる。

農業定住生活により、生活範囲が減少し、収穫(未来)の不安により時間概念が生まれた。この安全欲求の満たされないストレスこそが、政治や社会の土台となった。余剰食糧を得ることで、エリート層や支配者が生まれ、高度な社会が作られていく。

高度な社会を運営するために、「想像上の秩序=宗教・法律・道徳など」と「書記=税金の記録→官僚性」が生まれる。ホモ・サピエンスは、本来生物学的にはありえない大規模な協力ネットワークを、この2つの発明を駆使することで可能にしたのだ。

 

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③科学革命

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科学革命を成し遂げたのは、それまで辺境のド田舎であった西ヨーロッパだ。

西ヨーロッパは、西暦1500年くらいまでは世界のド田舎であった。その頃の世界GDPは8割がアジア(しかもそのほとんどが中国とインド)だ。

それが今や現代社会の基本中の基本は、ほぼ西ヨーロッパ産で埋め尽くされている(民主主義・銀行・マスコミなどなんでも)

「なぜド田舎の西ヨーロッパが世界を牛耳れたのか?」の答えは科学革命なのは言うまでもない。

 

無知の知

そもそもだが、1500年の西ヨーロッパ以外の世界は、ほんの近代まで『人類の進歩』なんてものは全く信じていなかった。

ここで「え?」ってなった人は、すでに西ヨーロッパの作り出した虚構にハマっている。

近代までのホモ・サピエンスのほとんどは、冷蔵庫でビールを冷やしたり、スマホで写真を送ったり、月までロケットで飛んでいったり・・・なんてことが『良い』ことだと認識していなかった。

 

世界はすでに完成形だったのだ。

聖書やコーランに書いて有ることや、王様や村の長老が言うことがすべて正しいと思っていた。だからそれ以外のことは無価値だった。

例えば「なぜ月の形が変わるんだろう?」という疑問も、神話や宗教で説明できるならそれが答えであり、何の記述も無ければ知らなくても良いことだった。

近代以前まで圧倒的な文化レベルを誇っていた中国や中東も、時たま発明はするが、それを生活や商売に使おうなんて思考まで至らなかった。羅針盤や火薬を発明した中国は、羅針盤を使ってやってきた西ヨーロッパの船団の大砲に打つ手がなかったのは歴史の皮肉だ。

 

西ヨーロッパの国は、世界は未知だという概念を持った。「無知の知」である。

ペストや宗教戦争を乗り越えた西ヨーロッパは、コロンブスのアメリカ発見により、新大陸の存在を知り、そして聖書の信憑性と価値が失墜する。

世界には、聖書に書いていない知らないことがたくさんあったのだ。

西ヨーロッパ人は、この自らの無知を知ることにより、知ってるつもりの大国を尻目に科学を発展させる道を選ぶ。

 

西ヨーロッパの強さ=資本主義

このコロンブスの新大陸発見という「無知の知」を得るターニングポイントを生んだのは、西ヨーロッパにあった資本主義だ。

大船団を組んであるかどうかもわからない大陸を目指すには、莫大な資金が必要だ。コロンブスは大金持ちでもなく、王侯貴族でもない。

なぜこんな大事業が出来たのか?

それは「投資」されたからだ。

 

資本主義の基本は信用(クレジット)である

プロテスタントの登場などで、ほとんどの社会で卑しいこととされていた「個人の利益追求」が良いことだという概念が生まれていた西ヨーロッパ

個人の利益は、雇用を促進し、技術に再投資されるので、巡り巡って全体の利益になる。この革命的な思考のもとに、王や商人は率先して利益を求め莫大な投資を行った。

西ヨーロッパ以外の国はというと、利益を投資ではなく消費するだけだった。戦争は略奪であり、支配者は大半の利益を巨大な建造物を作ったり酒池肉林して消費するだけだった。

西ヨーロッパは利益を投資することでますます利益を増やした。信用は株式や金融を産んだ。投資は「みせかけのカネ」だ。その信用を正当化するために科学の発展も促した。

利益追求は、野心となり、コロンブスの大博打を賄えたのだ。

コロンブスの成功は、莫大な富をもたらした。

莫大な富は莫大な投資となり、やがて帝国主義となる。征服事業は征服の度に融資を増やし、加速度的に広がっていった。

 

 

サピエンス、その果てに

三大革命により、(西ヨーロッパ中心に)サピエンスは地上を制した。

帝国主義により悲惨な戦争を見たが、それでも今やグローバル化社会として大いに発展している。

認知革命により巨大なコミュニティーを作り、農業革命により人口を増やし、科学革命により熱エネルギーを駆使して生産力を高めることが出来た。

そして核兵器により自らを絶滅させることまでできるようになった。

 

サピエンスの力の源は「虚構」である

虚構は社会適応性を高め、生物レベルでの限界を超えさせる力を持つ。

だが虚構は生活の深部にまで刷り込まれている。

ほんの何十年前まで、人種差別は当たり前だった。当時の科学がそれを「証明」してみせた。今では現代の科学がそれを否定し、法律で禁止された。

だがこれもまた変わるかもしれない。科学や法律すらも虚構なのだ。

 

 

まとめ

本当は「お金」や「宗教」についても、もっと鋭い指摘があるのだが長くなったのでこの辺にしよう。

こうしてみると、三大革命の重要性を謳うのは非常に的を得ているような気がする。

ひとつの生物としてみると、認知革命で生物レベルの限界を超えて他のサピエンスや動物を出し抜き、農業革命で自然を制覇した。そして科学革命により、その地位を不動のものにした。

だがその他の生物や地球の歴史として見ると、ホモ・サピエンスは完全に害獣でしかない。

 

この本を読んで、ホモ・サピエンスは幸せなのか?という疑問を持った。

本来、狩猟採集するための身体と精神を、慣れない農業や集団生活に投じている。

虚構により、本来認知できないようなことを盲信させられ、それに振り回されている。例えばコンビニで勝手にパンを食べただけで逮捕されてしまう。目の前にあるパンを、空腹で死にそうでも、レジに並んでお金を払ってからやっと食べられる。もちろんゴミはゴミ箱へ。これだけのことでも、多くの虚構が混じりこんでいる。

身体や精神を病むのも当然だろう。

豊かさを求めたために、これほど虚構だらけの世界になってしまった。

これで幸せなのか?

いや、そもそも「幸せ」という概念自体が虚構なのだ。

 

 

「なぜ西ヨーロッパが世界を牛耳ったのか」をもっと知りたければ、ジャレド・ダイアモンド先生の名著がおすすめ。

 

日本にも梅棹忠夫なんて天才もいるので一読あれ。

 

 

「ビッグ・リボウスキ」のデゥードな生き方が実は幸せなんじゃないか説

ビッグ・リボウスキ (字幕版)

ビッグ・リボウスキ」という映画をご存知だろうか?

コーエン兄弟の傑作カルト・ムービーである。

自堕落なおっさんが悲喜交交なバカ騒動に巻き込まれていく話なのだが、現代において終始ダメなそのおっさんの生き方が実は幸せなんじゃないかと思ってきた。

そんなデゥードな生き方に学ぶ幸せについて。

 

目次

 

デゥードなおっさんのスペック

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ヒッピー崩れの50代独身無職おっさん

若い頃はヒッピーでブイブイいわしていたが、今では家賃滞納しつつ、友人たちとボーリングに汗を流し、ホワイトルシアンとマリファナを好む。

だらしない格好、口癖は「ファ◯ク」、周りはおっさんだらけ、つかの間のお風呂でマリファナタイム、大好きなボーリング、親友はイカれたユダヤ人・・・

どう見てもいわゆる『負け組』な人生だが、何だか憧れる何かを持っている。

そこがデゥードな生き方の真髄だ。

 

おっさんは孤独に見えて全く孤独ではない。

イカれた友人たちに囲まれているが、ピンチには絶対助けてくれるマブダチ揃い。

質素な暮らしだが、自由にホワイトルシアンとマリファナを楽しむ。

とにかく貧乏だが、いつも親友(ほぼ独身)に囲まれ、毎日のように趣味のボーリング(大会参加中)をやり、毎日酒とマリファナと遅寝遅起。

 

世間一般でいう「幸せ」像とは程遠く見えるが、その生活スタイルに憧れるファンが世界中におり、公開当初は失敗作の烙印を押されていたにも関わらず、その後カルト的な人気を得るようになる。

 

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『デゥードな生き方』現代の幸せ像は本当に幸せなのか?

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この映画を見てグサッと来るのは、現代の幸せの定義はそもそも本当に幸せだといえるのだろうか?という疑問がほとばしるほど湧くところにある。

このデゥードの生き方は、その作られた幸せ像を破壊する革命的なスタイルなのだ。

 

現代の幸せ像は、「妻や子供に囲まれ、一軒家を持ち、たまに家族旅行」なんていうステレオタイプはご健在だ。子供の頃からせっせと勉強して、大人になってもせっせと働くのは、この暗黙の幸せ像があるからだ。ここに虚栄心を満たす経済的な豊かさ、存在に気付かないくらいの万全な健康状態、社会での輝かしき地位、そして名誉・・・なんてのが続く。

逆に言うと、人々はこの既成事実化した虚像に縛り付けられ、その中で競争を強いられている。その競争の中には、資本主義の精神や政治の権力構造が組み込まれ、人々は少しでも良い生活を目指すために働き、消費し、そして疲労していく。

そんなヒッピー崩れのおっさんが言い訳に使いそうな精神が、この映画にはこれでもかと注入されている。

 

おっさんは殴られ、脅され、自宅のマットに小便され、最後には殺されかけても、何だかんだ助かる。それも大体は周囲の人間のおかげだ。周囲の人間のおかげでひどい目にあっているとも言えるのだが、おっさんは責めも逃げも隠れもせず漫然と受け入れる。

おっさんは言い訳しない。逃げて隠れて生きてきたおっさんだが、もはやすべてを受け入れているのだ。まさに禅の境地!

 

おっさんは踏んだり蹴ったりの逆わらしべ長者的悲運に見舞われるが、ラストシーンにはいつもと何も変わらない友人とのボーリング風景が映し出される。あれだけの災難があったにも関わらず、おっさんの生活は変わらないのだ。輪廻転生のような生活。

だがそこにはおっさんの意思がある。おっさんは、世に流される世間体に囲まれた生活ではない、自分で選択した毎日を送っている。それが端から見ればくだらない自堕落な生活でもだ。

 

おっさんの、デゥードの生き方のあの何とも言えない魅力とは、「束縛のない自由」であり、なおかつ一番大事なのはその結果を甘んじて受け入れている姿だと思う。束縛とは家庭や仕事だけではなく、世間体や他者の評価、見えない競争といった明確ではない「何か」まで含む。おっさんはその中で足掻き、そして今に至る。だがそこには敗残者でもやせ我慢でもない、自然体の姿がある。

おっさんはまず受け入れ、その状態の中で楽しく生きている。足るを知るその生き方こそが、真の自由だ。そこには何も介在しない自然体のおっさんがいる。異物が介在する余地のない姿とは無防備で危険な状態ではあるが、そこにこそ本当の自由があるのだ。

 

デゥードな生き方とは、「足るを知りつつ楽しむ」である。

周囲の目や社会的な地位などを少しでも気にすれば破綻してしまう危うい生き方だ。生活破綻者の開き直りでも、仙人のようなやせ我慢でもない、おっさんオリジナルな生き方。これは、普段から何かしらの束縛の中で生きている常人にはまず出来ない生き方であり、それこそがこの映画のカルト足らしめる魅力なのである。

 

 

まとめ 

 

とにかくイカれた奴らが次から次へと湧いてくる映画だが、そんな中で取り乱しながらも最後までデゥードはデゥードなのだ。成長も変身もしない。それはデゥードはデゥードだからだ。何にも影響を与えず、何からも影響されない。このデゥードな生き方、憧れるなあ~

映画自体の内容は、なんちゃってハードボイルドに見せかけたゴリゴリのハードボイルド。コーエン兄弟らしいよく出来ているような感じがするけどなんだかよくわからないような気もするシナリオに、絶妙かつ濃密なキャラクター設定、そして全体を通して唯一筋の通ったデゥードな生き方。

これぞカルト映画である。カルト映画とは要するに、これに共感できる人は少ないけど、共感してしまえば感情移入を通り越した神秘的体験ができるものだ。

ということで、現代日本にはもってこいの映画である。