『ゲットアウト』のブラックジョークにやられた
一言・・・やられた!
低予算ながら世界で大ヒットかつ物議を醸したという『ゲット・アウト』
黒人差別を扱ったように見せてからの大どんでん返しは、衝撃的であった。
とにかくやられた感満載のこの作品に漂う怪しい空気感を分析してみる。
※ということで、此処から先はすでにゲットアウトを鑑賞した人のみの聖域です
黒人差別へのブラックジョーク
僕のように極力事前情報を排してこの映画を見た人は、急に現れるSF世界にびっくりしたことだろう。
物語は黒人男性と白人女性のカップルが、白人だらけの彼女の家へ挨拶に向かうところから始まる。
彼女の実家は古風だが立派な家で、そして前時代的でステレオタイプな黒人の使用人がいる。
そこで開かれるパーティーの招待客は、皆が白人。
とにかく全体的に黒人主人公にはアウェーな環境がこれでもかと盛られている。
しかし、ここに登場する白人たちは皆が、気味が悪いくらい親しげなのだ。
だがそこに漂う微妙な空気感には、題名の通り『ゲットアウト』=出て行け!という排他的差別的な臭いがするのだ。
否、そういうように見せられていた。
やけに親しげで愛想の良い「オバマ大統領支持者」を気取る白人たちからは、一切差別的な扱いはされないにも関わらず、なぜかそこに『差別感』を感じ取ってしまう。
それこそが、ジョーダン・ピール監督が施した巧妙なトリックであった。
差別とは、ヘイトクライムやトランプ大統領のようなあからさまなものは、非常に目立つが馬鹿らしいくらい少数派である。
この映画は、むしろ「自分は差別主義者ではない」と自認する多くの人々=大衆が、心の奥底に秘めている『差別感』をとてつもなくうまく表現している。
ここでいう『差別感』は、攻撃的なものではない。それは他者に対する恐怖や不安である。
例えば、僕は海外旅行中に出会った異国の人たちに、自分は日本人であると話すと、「サムライ!」とよく言われた。
日本人=サムライというイメージは非常に根強い。もちろん本気で言っているわけではないだろうが、こういった強い印象や象徴は誰しもが持っているだろう。
このイメージが、根拠のない恐怖や不安へと変わることがある。
このイメージからくる恐怖や不安は、悲しいかな歴史的にも文化的にも人間には根強く残っている。現代はその恐怖を和らげようとする人と、逆に煽ろうとする人の二極化が叫ばれている。
劇中のパーティーの白人たちは、皆一様に黒人主人公に握手やハグを求めてくる。わざとらしいくらい。だが、その視線やちょっとした間からは、微妙な壁を感じ取ることができる。
ここは、後から出てくる大どんでん返しな設定を抜きにしても、彼らのわざとらしい親切感の一挙手一投足から滲み出る『何か』を感じ取り、次第に不安に駆られる黒人主人公の焦燥感はこれ以上無い『差別』表現である。
お互いがお互いに抱く「イメージ」により、表面上友好な雰囲気であっても、どこか見る側がそわそわしてしまう。
それは「白人女性と付き合っている黒人男性」「いかにも共和党支持者そうな白人の高齢男性」「黒人の使用人を雇っている富裕層の白人家族」などなど、そのイメージのレッテル貼りには打って付けのメンバーが揃いも揃っているからだ。
だが、そこを逆手に取ったのが「ゲット・アウト」である。
この白人たちは、黒人主人公を羨望の眼差しで見ていた。
だがそれは「商品」として・・・である。
立派な若い体躯、そして黒人の持つ身体能力(これもイメージ?)、彼らは黒人主人公の身体に憧れていた。
彼らは「特殊な手術」により、拉致してきた黒人の頭に自分の脳を移植し若くて強い身体を手に入れるというヤバイ集団であった。
このパーティーは、その品定め=黒人主人公であり、オークション会場であった。
彼らは黒人主人公がいない間、オークションを行う。まるでかつての黒人奴隷市場のようである。かつての黒人奴隷は労働力として扱われていた。だがこのオークションは、彼らの強い体を手に入れるためのものだ。
そのどちらも黒人という人種に抱くイメージでしかなく、人間=個人としての扱いではない。
このイメージこそが、差別を生み出す元凶である。
肌の色や国や宗教でイメージ=レッテル貼りを行うことは、個人としての存在の否定であり、無益な争いを生む。
『ゲット・アウト』は、このイメージを弄んでいる。
まさにブラックジョークだ。
急なSF展開も、これがブラックジョークだと宣言しているようなものだ。
だが、世界はブラックジョークがリアルに変わろうとしている。
本来のエンディングは、何とか生還した黒人主人公がアーミテージ家殺害容疑で逮捕される筋書きだったらしい。
だが現実社会で黒人が警察に射殺される事件が相次いでおり、エンディングを変えたという。
ブラックジョークがジョークにならなくなってしまったのだ。
まとめ
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久しぶりに(良い意味で)性格の悪い映画を見た。
低予算ながら、このはち切れんばかりの「あの感じ」な空気感を充満させた監督には脱帽である。
鑑賞後、凄まじくやられた感じがしたのは自分の中にある「イメージ」があぶり出されてしまったから?
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nounai-backpacker.hatenablog.jp
「ラ・ラ・ランド」=夢と現実と犠牲
ついに「ラ・ラ・ランド」がAmazonプライムビデオで見放題になった。
基本的に映画を鑑賞する前に事前情報はほとんど入れない方なので、「ミュージカル仕立ての恋愛映画」くらいにしか思っていなかった。
ただラ・ラ・ランドのデミアン・チャゼル監督の前作「セッション」が最強に狂気の沙汰であったため、彼の人が恋愛映画を撮るとどうなるのだろうという怖いもの見たさがあった。
が、これはそんな簡単な代物ではなかった。
目次:
夢と現実
今作のテーマは『夢と現実』である。
使い古されてブックオフで平積み105円コーナー行きのテーマではあるが、今作はこのテーマを二段構えにするという奇策に出た。
古き良き時代のJAZZ BARを経営したいという夢(一度失敗済み)を持つセブ(ライアン・ゴズリング)と、女優を目指すがオーディションに落ち続けているミア(エマ・ストーン)が主人公だ。
舞台はロサンゼルス。夢と金と挫折の街である。
お互い夢に挑み続けるも、全く相手にされていない挫折の日々を送っている。
二人の出会いは最悪なケースではあったが、同じ挫折感を味わう二人は次第に惹かれていく。
まあ、ここまではよくある話だ。
彼らはお互い切磋琢磨し、夢へ果敢にアプローチしていく。
だが二人の夢へのアプローチ方法は少し違っていた。
ミアはかつて脚本の才能があると言わたことがあった。セブはその才能を引き出すため、ミアに一人芝居をすることを勧める。
ミアは一人芝居を行うが評価は芳しく無く、「もう恥をかくのはたくさんだ」と夢を諦めてしまう・・・が、その一人芝居を見に来ていた客によりオーディションに呼ばれ、見事女優への道が開ける。
セブは、古き良き時代のJAZZを愛す男であったが、夢であるJAZZ BAR経営のための資金稼ぎに、プライドを捨て大衆受けが良いバンドに加入する。
バンドは成功するが、そのことにより多忙となり、ミアとの間に亀裂が生ずる。
ミアはオーディションという受け身の立場から、自らを積極的に宣伝することで夢を掴みに行った。
セブは少し遠回りをして現実的な作戦に切り替えた。名を売り金を稼ぐため、自らの主義を改変した。
夢と現実と犠牲
ミアは主義を変えてまで現実的な作戦に切り替えたセブに困惑する。また不本意に参加したバンドが成功し、多忙になっていくセブへの嫉妬もあっただろう。
セブは、ミアの夢を応援しながらも、ツアーで飛び回る自分についてきてほしいと願う。セブは現実的な作戦に切り替えたことで、ある程度の安定を手に入れ、ミアとの「現実的な生活」を視野に入れていたのだろうか?
またセブは穿った見方だが、ミアが成功するとは思っていなかったのかもしれない。無名のミアが一人芝居をした所で、大きな成功につながることはないだろうと。
お互いが夢のために相手を必要としていた。
だがそのためには相手の夢を諦めさせなければならない。
この大きな矛盾こそ、「ラ・ラ・ランド」の最重要テーマである。
結局、二人は夢を勝ち取るが、二人の関係は破綻してしまった。
最後のシーン。
ミアはセブではない夫とともに、セブの夢が実現したJAZZ BARに偶然立ち入る。
二人は会合し、そして『夢』が流れる。
それは二人の関係が続いている夢だ。
大女優となったミアに寄り添うセブの姿がそこにある。
これが誰の『夢』なのか?二人のうちのどちらの回想なのか?
これは大いに議論のあるところではあるが、僕は二人の『夢』であると思う。
このシーンでは、二人が出会い、ミアがセブの協力の下オーディションに合格しパリへ向かう。
セブはミアと共にパリへ向かい、パリのJAZZ BARでピアノを引きながらも、ミアに寄り添う。二人は結婚し、子供を授かり、セブの夢であったJAZZ BARにそっくりな店へ入っていく。二人は演奏を楽しむ。そのセブの顔には何の悔恨すら無い。
これは「ミアのために夢を諦めたセブの姿」である。
一見、ミアの希望であるように見えるが、セブからすると「夢を諦めてミアと共に生きる」というもうひとつの【夢】のように思える。
二人は最後に目を合わせ、ニコリと微笑み合う。
この笑みは、お互いが夢を叶えたことへの喜びなのか、それとも・・・・?
という素晴らしい幕の引き方で最後を迎える。
まとめ
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このバッドエンディングとも取れる終わり方には、賛否両論あるようだ。
が、これは夢と現実を両方満足した形で手に入れることはできないという人生の奥深さを表しており、だからこそ『夢』を追う人間は素晴らしいという人間讃歌のようにも思える。
昨今の「出る杭は打たれる」や「失敗したものを吊るし上げる」ような世情において、この物語が与えた衝撃は大きいと思う。
彼らは失敗を恐れず、大切な人を捨ててまで夢を勝ち取った。
安易な合理化で自分を守ることを拒否したのだ。恋や家族や安定した生活のために夢を諦めることは多々ある。それを言い訳にしてまでも。
最近の映画やメディアの論調は、この合理化を是としていることが多い。誰もがほっこりするハッピーエンド、調和した世界、そこには安全欲求を求める人々の「夢」がある。
だがミアとセブは、個人の夢を求めた。そこはほとんどの人間が失敗と挫折を恐れ、立ち入らない世界だった。
このラストの受け止め方は、人によって全く違うものになるだろう。
安定を求める人、夢に挫折した人、夢から逃げた人、夢を勝ち取った人、そして夢のために現実を捨てた人、そのどれが正解とは言えないところが人間の生き方なのである。