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脳内バックパッカー

自宅にいながら映画や本の世界で旅をしよう

映画「ファイトクラブ」考察

映画

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たぶん糸井重里がこの映画のキャッチコピーを作ったのなら、

「このタイラー・ダーデンは草食男子の中にもいるんです、たぶん」かな?

ファイトクラブは3人の主要人物がいるが、ますはこのタイラー・ダーデンを語らずしてファイトクラブのゴングは鳴らない。

 

 

 

タイラー・ダーデン

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デビット・フィンチャーが見事に描き出した本作の「もう一人」の主人公ブラッド・ピット演じるタイラー・ダーデンこそ、男という生き物の本能に刻み込まれた『理想像』だ。

タイラー・ダーデンは危険で破天荒でめちゃくちゃなカリスマであり、社会の裏で世の中を皮肉りながら生きるニヒリストであり、動物的なオス臭さを理性なき行動で発奮させるバーバリアンである。

周りを惹きつけ、世情に流されず、人間が動物の一種類でしかないということを忘れていない男。

これこそ『男』なのだ。

いや、男が思う男、男のDNAに刻まれた「男」というページに書いてある男なのだ。

 

タイラー・ダーデンの哲学は矛盾だらけである。

所有や消費を否定し、世間に唾を吐けと煽動している一方、彼の仕事といえば最も大衆的に消費される商品の一つである映画のフィルム貼りであり、最も消費社会の頂点にいる富裕層向けの高級石鹸を売って生きている。

タイラー・ダーデンはそこに皮肉としてポルノや人間の脂肪を使うことで自己満足してはいるが、この皮肉とは自己矛盾している自分への皮肉にしかみえない。タイラー・ダーデンの皮肉とは上司の悪口をいう程度の『負け犬の遠吠え』でしかない。しかしタイラー・ダーデンはそれすらも開き直ることで、小さな革命を起こしていく。負け犬と自覚した、負け犬の戦いをするための、負け犬の軍隊を作っていくのだ。

 

これを見るとタイラー・ダーデンは非常にいい加減な男だと思われるかもしれない。

しかしそこに「男の中の男」足る象徴がある。

タイラー・ダーデンは自らが負け犬だろうがなかろうが気にしていない。あの子供のようなふざけた反逆行為も、どこか虚無的に見える衝動的行動すら、全く後悔や迷いなく行っているところからもそれがわかる。

タイラー・ダーデンは自らをどのグループやカテゴリにも所属しないたった一つの存在として振舞っているからだ。

 

要するにタイラー・ダーデンは男であり一人の人間であるという自然的な存在理由を自覚しているのだ。

逆を言えばタイラー・ダーデンは「男」でも「人間」でもなく、「タイラー・ダーデン」なのだ。

タイラー・ダーデンはタイラー・ダーデンとしてすべての責任を自分だけが引き入れるという信念を持った『個』なのだ。

タイラー・ダーデンこそ男が思う理想的な存在ではなかろうか?

 (ちなみに最高の映画キャラクター100人ランキングで栄えある1位なタイラー・ダーデン)

 

 

 

「僕」

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男というものは世界で自分一人だけが特別な存在だと信じて生まれてくる

その信念は成長していくにつれ、失敗し、恥をかき、自信を無くし、いつしか世の中に埋没していく。気づけばアイデンティティを傷つけ合わない無害な仲間(共犯者)たちと他人の悪口を言いながらちびちび酒を飲むようになってしまう。

そんな哀れな敗残者のひとりとして出てくるのが主人公である「僕」である(エドワード・ノートン)

主人公は高級マンションで大好きなインテリアに囲まれた勝ち組の生活をしているサラリーマン。だが現実は多忙な仕事や上司の小言にウンザリしながらインテリアを買うことだけを楽しみにしているような「死んだ人間」だった。

 

一見幸せな独身貴族に見えるこの「僕」こそが自分の存在を放棄した、タイラー・ダーデンとは真逆の存在として描かれている。主人公は会社や仕事というカテゴリを確信的に所有し、モノを消費することで自己を曖昧に騙しながら生きている(とタイラー・ダーデンは言う)。

自己という存在の責任をどこかに預けることによって「無難で」「優等生」な生活をしているが、それにより生きている実感を得ることが出来ないという悩み=不眠症を抱えている。

この責任を放棄するという行程をタイラー・ダーデンがひとつずつ潰していくというのが、この映画のストーリーの骨の部分だ。

 

 

タイラー・ダーデンが憤るのはこの「責任を放棄して安穏と生きているくせに、生きている実感が欲しい」という自己矛盾についてだと思う。

決して単なる消費社会について怒っているのではない。消費社会はこの自己矛盾の手っ取り早い解決策として使われる象徴なのだから。タイラー・ダーデンはそんな「象徴」であるものすべてを破壊する騒乱計画(プロジェクト・メイヘム)を起こす。

ネタバレになるので詳しくは書かないが、ファイトクラブからこの騒乱計画へと続く過程こそ、主人公の「無責任」をぶっ壊していく様であり、あのラストシーンへと繋がる。

 

 

 

マーラ

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ラストシーン、「僕」とタイラー・ダーデン、そしてもう一人の主人公マーラの3人が揃う。

マーラ(ヘレナ・ボナム=カーター)は、「僕」と同じような生きている実感を感じることが出来ない女と描かれている。

彼女は生きている実感の無さを退廃的な生活や衝動的な自殺行為で紛らわそうとしている。

そのくせ、マーラは他人に救いを求め、依存する。

 

初めは「僕」を拒絶していたにも関わらず、大量の睡眠薬を飲んだから助けに来いと「僕」に電話する。その後も喧嘩別れを繰り返しながら、気づけば「僕」の近くにマーラはいるのだ。完全なるメンヘラ・ツンデレ・ストーカーというお近づきになりたくない女性だ。

マーラは見た目だけでは退廃的で粗暴な印象を受けるが、実際は承認欲求の強い依存体質なか弱い人間として描かれている。

 

 

 

 

ファイトクラブ三角形

自分という存在を仕事や所有や消費で紛らわしている「僕」と、自分を無価値だと決めつけているにもかかわらず他人の承認を求めるマーラ、そして自己を絶対的な者として主体的に生きるタイラー・ダーデン・・・

こうしてみるとすべての人間の性質をこの(極端な)3人を頂点とした正三角形の中に押し込めることができるのではないだろうか?なんて考えてみると面白い。

 

責任から「僕」のように逃避するか、マーラのように人に委ねるか、タイラーのように自分のものとするか・・・

(まるで碇シンジ、綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレーのようだ)

 

ファイトクラブ三角グラフで考えると、僕はタイラー寄りのマーラだろうか。好きなことだけして自由奔放に生きたいが、他人の評価も気になってしまうとことか。

 

そもそも「僕」とタイラー・ダーデンの対立軸だけでも十分面白いはずなのに、マーラという人物を鍵として入れ込んだところには、こういった人間の生のパターンの相関図を完璧なものにすることで、より人間的なリアルさを出そうとしたのではないか?と思うのであった。

 

 

 

なぜファイトクラブがグッと来るのか?

ここまでファイトクラブについて考えてみると、ふと「なぜこんな非現実的なストーリーがグッと来るのか?」という疑問が湧いて来る。

 

マッチョ暴力映画というあまり世間一般受けしないストーリーにも関わらず、世界中でカルト的な人気があるのはなぜだろうか?

これは先程述べたように、「人間のリアルさを魅力的なキャラクターでうまく描いたから」といえるかもしれない。

ということは人間のリアルさを描きたいからこそ、最も「リアル」であるベアナックルでの肉弾戦なのだろうか?

いや、それだけなら「ガチンコファイトクラブ」の方がよっぽど大衆向けだ。

ではなぜ「ファイトクラブ」には憧れとカタルシスと『グッと来る』があるのか?

 

 

僕はここでファイトクラブとは「偶然出会った他者との渾身の殴り合い」であり、それは「実社会のコミュニケーション」に当てはめることができるからではないか?と考えてみる。 

あの激しい格闘はファイトクラブに集まった名前も知らない同士で行われ、初対面の人間ともいきなりガチンコで殴り合いをすることになる。

この殴り合いは最低限のルールだけがある本気勝負だ。相手の動きを読みながら、いかに相手を倒すか、それだけが戦いを支配している。

 

これは会社や学校や生活において誰もが日常的に行っている「他者」との交流と同じだ。

相手がどのような人間か、何を考えているか、自分をどう見ているか、まさにコミュニケーションの際の心理戦と同じ条件だと思う。

現代人はそこで相手の出方を見ながら、時に嘘をつき、騙し、不安になり、それがストレスとなっている。相手は思い通りにはならないし、自分の評価をするのも相手であるとわかっているからだ。

 

だからあの過激なファイトクラブは誰もが経験している他者との交流のパロディなのだ。

他者とはぶつかり合うことでしか理解し合えないし、外界とガチンコでぶつからないければ自分の存在なんてわからない。

ファイトクラブはその他者とのぶつかり合いを「素手での殴り合い」という嘘や偽りのない本当の自己を晒し合う場となっている。

本心でぶつかり合ったからこそ、不満や誤解はない。だから彼らは戦い終わった後に笑顔で泣きながら抱き合うのだ。初対面でさっきまで本気で殴りあっていた相手にもかかわらず!

 

そう、ファイトクラブにはコミュニケーションで鬱屈する人たちの普段得ることが出来ない爽快感があるのだ。相手の顔色をうかがって自分を押し込めたりすることのない爽快感がそこにはある。

顔に出来た痣や傷のせいで「僕」が職場でどんどん浮いていくにもかかわらずせいせいとした顔でいるという「あの場面の爽快感」はここにあるのだ。映画に入り込んでしまうと、本来当然の反応である怪訝な顔をする上司の方が異常だと思ってしまうくらい、ファイトクラブに洗脳されてしまう。

 

ファイトクラブの「グッと来る」ところはそんな鬱陶しさを排除した自己の表現の場への憧れがあるのだ。

 

 

 

 

最後に「ファイトクラブ」の真の勝者とは?

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「ファイトクラブ」、そこでは逃げようが依存しようが好きに生きようが、結局のところ答えはない。

人間とは、タイラーだろうと、「僕」だろうと、マーラだろうと、自分という存在に満足することが出来ない罪深き生き物なのだから。

止めどない承認欲求と分かり合えないもどかしさという現代社会をあげつらった「ファイトクラブ」は、そんな人間の不条理な感覚を殴りあいという原始的な姿で表している。

 

では「ファイトクラブ」の勝者とは一体何なのだろうか?

それはラストシーンの「僕」のように本気で現実とぶつかることでありのままの自分を認めることができた時であると思う

それは勝ちでも、負けでも、諦めでも、開き直りでもなく、文字通り認めることだ。

簡単なようで一番難しい。

しかしそんな誰もが背ける自分との本気の殴り合いに勝利したその瞬間こそ、ファイトクラブの真の勝者となれるのだ。

 

 

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※この記事は兄弟ブログからのカテゴリ移行です。 

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