映画「エベレスト」の感想~結局のところ、そこに山があるからなんだよなあ~
全国の山男・山女の皆様!
我々の大好きな酸欠映画ですよ!
アマゾンプライム映画でずっと見たかった「エベレスト」が登場したので、さっそく見てみたのでその感想と登山について。
エベレストの手前まで登った僕の感想
エベレストに登るのは、映画同様超高額の料金が発生する。
僕のような貧乏人には、エベレスト登頂より難しい。
1000万近くかかる模様。なんせ入山料だけでも100万円近いし、シェルパを雇って荷揚げしたり、ガイドを雇ったり・・・そもそも余程の熟練したプロ登山家でも死ぬような山なので、これくらいかかって当然の領域だ。
でも僕はこのエベレストの手前まで行ってきた。
エベレスト街道と呼ばれるトレッキングコースがある。
トレッキングコースといっても、そこはヒマラヤ山脈。
最高地はエベレストベースキャンプ手前のカラパタール(5500m)。
でもここまでなら、入山料とルクラまでの飛行機代を入れても3万円くらい。
途中、宿やレストランも整備されているので、僕はシェルパもガイドもなく一人で歩いた。
そんな僕からすると、エベレスト登頂とは・・・正気の沙汰じゃない。
5500mまで行くと、3歩歩く度に休憩していた。
というか、この5500m地点まで辿りつけない人のほうが多い。
それほど高所というのは、人の住む領域ではない。
この映画はそんな5500mを遥かに越えたデスゾーンと呼ばれるエベレスト頂上付近で起きた実際の遭難事故が題材となっている。
事実は小説よりも奇なり
ジョン・クラカワー(実際にこの遠征に取材参加していた作家)が書いたルポが題材となっている。
ネタバレになるが、詳細はこちらをご覧あれ。
選ばれし者しかたどり着けなかったエベレストの頂点に、金を払えば連れて行ってもらえる・・・そんなブルジョアブームが引き起こした事件。
当時、急速に流行っていた商業登山の最高峰がこのエベレスト。
世界レベルの登山ガイドが主催し、万全の体制で世界一の頂まで連れて行く。
お値段は一人65000ドル。今なら700万円くらいか。
やはりお金持ちというのは庶民とは考えが違うらしく、そこまでして自慢したいのか?ってレベルの金の使い方をするがこれはその典型。
実際、事件後に世界から批判を受けたのも、我々庶民からすると頷ける。
「自業自得」だと。
しかし登山をしたことがある人なら、彼らの行動にシンパシーを感じるだろう。
「なぜ山に登るのか?」の答えは、どう考えても「そこに山があるからだ」としか言えないからだ。
リンクは2年前の旅行で、今度はアンナプルナへトレッキングした時の記録だ。
この時もヒルだらけの山の中を5日かけて5000mまで登った。
登っているときは、「風呂入りたい」「コーラ一気飲みしたい」「早く帰りたい」と念仏のようにブツブツ言いながらも、一歩一歩たしかに踏みしめていけばいつかはすべての苦労を吹き飛ばす、「あの場所」にたどり着ける。
この快感はそんじょそこらで味わえるものではなく、そしてどんどん強い刺激を求めたくなっていく。
人間が山に取り憑かれるのは、何か本能的な必然性があるとしか言えない。
ただただ寒くて息苦しい映画だが・・・
この映画は、「商業的なツアー登山という本末転倒な題材で必然的に起きた遭難事故」を延々と垂れ流す。
のっけから自業自得と決めつけて見ると、ただただ寒くて息苦しい映画でしかない。
だが、その自業自得をあらゆる立場の人の視点と、それを容赦なく否定する大自然をうまく対比させて描いている。
顧客「危険だし、無理に登頂できないとわかっているが・・・大金払ったんだぞ」
実際、弁護士やパイロットなどの金持ちの参加者が多いが、中には長年の夢のために頑張ってお金をためた参加者もいた。遭難死した日本人女性もその一人だ。
主催者「無理は絶対しないと口を酸っぱくして言ったものの・・・やっぱり登頂させないと意味が無い」
主催者側もそう簡単に登頂はできないと十分に説明をしている。高地順応等、やれることはやった。だが客は登山経験がかなりあるといっても、初戦はアマチュアである。
しかし、登頂は絶対条件だ。そもそもが成功率の低い商売であるため、登頂率が今後の会社の運営にとって一番大事な指標になる。他のライバル会社やマスコミ(実際宣伝のためにジョン・クラカワーを随伴した)の事を考えると、冷静な判断ができない。
エベレスト「・・・何やってんのこいつら」
錯綜する欲によって曇らされた判断
自然相手のため、頂上目前で下山の判断をすることは確実にある。
だがそこで、各々の欲のために合理的な決断ができない。
この複雑な欲の交差のために、最悪の判断が導かれてしまう。
主人公であるガイドのロブ・ホールは、数々の判断ミス、または状況を楽観的・日和見的な見方をしてしまう。
まずエベレスト登頂は、天候が最重要だ。
そして天候が安定するいわゆるシーズンは、数日しかない。そこ目掛けて、ツアー登山だけでなく、世界から登山隊が訪れる。
1996年のこの時、ツアー登山以外にも、南アフリカや台湾の登山隊や映画の撮影隊もいた。そのため難所ではしばしば渋滞が発生し、スケジュールの遅延や、予期せぬ体力や酸素の消耗が起きた。
さらに3度目の挑戦のある客の必死の願いで、予定時間を過ぎたにも関わらず登頂を手伝ってしまう。結果予定時間が過ぎ、天候は悪化し、その顧客が体力を消耗しすぎて動けなくなってしまう。
最後の判断ミスは、ロブは動けなくなったその客を捨てることができなかったことだ。
そして悲劇のエンディングを迎える。
でもこれって仕事でよくあることなんじゃないか?
本音と建前、各々の事情、そんな柵のために悲惨な結果になるとわかっているのにズルズルと突き進んでしまう・・・
「この計画じゃあ、現場が回るわけないのに・・・」と思っていながら何も言えなかったり、「これを乗り越えなきゃ俺のメンツが・・・」なんて上司もいるし、「まあ、現状維持ってことで・・・」っていつも同じ終わり方な会議・・・
この戦略的傍観という非戦略的な立場から動けない状況により、集団はわかっていながら悪い方へ悪い方へと落ちていく。
そう考えると、結局責められるのは誰なのか?
「金を払ったんだから登頂させろ」とおもってしまう客なのか。
登頂が困難であるのに、商売として無理矢理成り立たせようとしてしまうツアー会社なのか?
答えは人間の欲望だろう。
欲によってそもそも不可能な挑戦をし、欲によって正常な判断ができず、欲によって最悪の結果へと自ら転がり落ちていった。
でもその欲のおかげで、人間はここまで進化発展したのだ。
エベレストに最初に登頂したのも国家のメンツの張り合いが原動力であったし、今僕らがフグや納豆が食えるのも「欲」のおかげだ。
だからこそ、そこに山があるだけで我々は危険な道を歩き出してしまう。
まとめ
3Dで見たかった。
ちなみに日本版「エベレスト」は、僕の大好きな神々の山嶺が原作らしいので、かなり期待していたら、それはもう原作崩壊甚だしいらしいので見ていない。
ここにも、「人気ある原作なら映画化すれば赤字はないだろう」という会社と、「こんな長い話一本にまとめられねえよ」という現場と、「こりゃ原作通り作らねえとゆるさねえぞ」というファンの構図がある。導き出された結果は、まだ見てないからなんとも言えないが。
でも不況だとか制作費が安いからとかで、安易な実写化と安易なキャスティングと安易な宣伝なんかを繰り返していると、そのうちデスゾーンに行っちまうぞ邦画!とエベレストの頂きで叫びたい今日このごろ。
そんな不安を払拭するために、シンゴジラ見に行ってきます。