#2017年一番良かった映画は、もちろん「ダンケルク」

・・・ということで、お題に乗っかってみる。

 

 

nounai-backpacker.hatenablog.jp

今年見て一番良かったのは、間違いなくダンケルクだ。

劇場で鑑賞し、かつBlu-rayまで買ってしまったのーらん。

 

Blu-rayで再鑑賞したが、やはり映画を超えてしまった映画だと実感する。

カネや宣伝で底引き網漁するわけでもなく、委員会方式やゴリ押し俳優という小手先も使わず、さらに従来の映画の見方すら無視した作品だった。

 

この映画は「徹底的なリアルさを追求し、映画鑑賞を体験にまで昇華する」というテーマが確固たる大地として存在する。

CGは使わず、実際のスピットファイアを飛ばし、それをIMAXで撮ってしまう。

だが、スピットファイアはわずか3機しか出てこない。

普通の映画なら、CGでも似せた機体でも良いから大編隊を組んでトラトラトラするところだろう。円谷英二は死んでしまったから、人類にはこれくらいしかできない。

だがこのわすか3機のリアルさには、アベンジャーズが飛び回ろうが全く足元に及ばない迫力がある。アベンジャーズが悪いわけではなく、たった3機のスピットファイアの存在感が強すぎるのだ。

レザボア・ドッグスという下品でクールな映画があるが、チョイ役なのに異質な存在感を放っている俳優がいる。セリフもほとんど無く、いつの間にか死んでいるのだが、このエディ・バンカーなる元犯罪者兼小説家兼俳優の存在感こそ、ダンケルクのスピットファイアなのだ。

 

確信的実験性を持つダンケルクは、ほぼ無名の若手俳優がストーリーの重要な位置にいる。まあひとりは(俳優初挑戦だけど)元世界的アイドルなんだが。

彼らは戦争モノにありがちな、平和的メッセージや愛国心や義侠心や家族愛や恋情や狂気や原罪なんてものは一切無視して、とにかく自分だけが生き残ることしか考えていない。

ダンケルクは爆発音とエンジン音とサバイブという言葉が連呼されるだけの映画だ。

彼らは、全くの無防備な姿で、いつやってくるかわからない死から、それこそ必死に逃れる。

我が国の兵隊さんなら命より大事にしろと鉄拳で習った小銃を真っ先に捨て、味方を欺き、味方を踏みつけ、味方の死体をかき分けてでも生きる。

蜘蛛の糸という小説があるが、彼らは我先に蜘蛛の糸に群がる餓鬼そのものである。

そしてそのものこそ人間であり生きることなのだ。

そこにヒューマニズムの欠片も感じない、泥臭い生への執着。犠牲的な行動は一切しない。みんな悟りニーチェ

 

もちろんそんな蜘蛛の糸に群がる餓鬼だけではなく、理想の軍人像を翼に賭けた英雄も登場する。

だが、彼の行動の真意を劇中ではほとんどの人間が理解していない。たった一瞬の英雄的行為のために、彼には悲惨であろう未来が待ち受けている。

だがだが浜に残された兵隊たちは、一瞬の歓声のあと、次々に故国へ向かう船に我先に乗り込む。

彼の自己犠牲は果たしてその代償を得ることはできたのだろうか?

 

救助に向かった民間船でしょうもないことで死んでしまった少年と、その姿が重なる。

少年の死は、戦争という巨大な衝撃の端っこの端で起きた、どうしようもない出来事だ。少年の友人やその父も、戦争から生まれたしょうもなさで少年が死んでしまったことを、ただ諦めるしかなかった。

あのシーンは、戦争という巨大な存在を語る上で外せないカットであったと思う。

あのどうしようもなさ、歯がゆさ、そしてしょうもなさこそ、戦争という状況に置かれた人間の感覚だ。

パイロットの自己犠牲精神、少年の哀れな死、この語られることのない小さな出来事は、そんな戦争の姿を浮き彫りにしている。

 

そんなシーンを時間と空間で分け、さらにそれを巧妙に編集することで、映画は体験に向かって走り出す。

空軍に文句を言う兵士と必死に戦うパイロット、船に乗り込み安堵する兵士と爆発する船、不時着と危機、恐怖と救済・・・同じ状況を違う時間や空間で見ると、その真意が感情を揺さぶる。

観ている側からすると、ひとつも確信を持てないまま、最後まで引きずられるように映画に飲み込まれる。

この確信が持てない感覚こそ、サバイブだ。

戦場では、常に死と隣り合わせだ。ほんの数秒の違いで生死を分かち合い、安堵が死へと変わり、危機がそのまま死へと繋がる。

あとほんの数秒早く飛び込めば生きることができた兵士、あとほんの数秒早く泳ぎ出していれば助かった兵士、あとほんの数秒・・・

 

為す術もなく、だが何かしないと居た堪れない不安。

周りの人間が抜け駆けしないだろうか、この場所は安全なのだろうか、あそこに行けばきっと良くなるんじゃないだろうか、そんな生への駆け引きが繰り返される。

だがそれはほとんど無意味だ。敵の飛行機は気まぐれに爆弾を落とし機銃掃射する。さっきいたところが吹っ飛ぶのか、それとも今立っているところが吹っ飛ぶのか。

 

このいつ死んでもおかしくない状況が描かれている映画は数多い。

名作プライベート・ライアンのノルマンディー上陸時や、地獄の黙示録での密林への船出、鷲は舞いおりたのマイケル・ケイン?

だが、そのどれもが明確な任務があり、ストーリーがあった。彼らは任務という他者への義務感の中で葛藤していた。

だがダンケルクでは具体的な任務や司令は一切ない。ただ浜で突っ立っている。いつまでに何が起こるという兆しはない(あってもすぐ立ち消えになる)

ダンケルクの主人公たちは、皆、自らの意思で動き始める。上官の命令や軍人としての何たるかみたいなのは一切無視だ。

近代戦争という超高度なシステムの中であって、彼らは原始の行動に駆り立てられている。

そんな姿を観て、観客は彼らとともに何が起こるかわからないという「忘れていた恐怖」を追体験するのだ。

 

なので映画館で見た時に、メッサーシュミットが急降下してくるところで目をつぶってしまった。

今までの映画なら、ニヤッと笑う独軍パイロットの顔がアップで映され、急降下していく様が流されていただろう。もしかしたら命令するゲーリングあたりも映るかもしれないし、その下にテロップで「ドイツ空軍総司令官 ヘルマン・ゲーリング」とか出るかもしれない。もしかしたら最初に敵機を発見する兵士の子供の頃の思い出とか流れちゃうかもしれない。

ダンケルクは、はじめ音しか聞こえない。何事かと劇中の兵士たちと一緒に劇中の空を食い入るように見つめる。微かに黒い点が見える。エンジン音が大きくなる。あれ?こっち来てるじゃん?俺狙ってねえか?わあああああ!

 

そんなダンケルクは、2017年イチオシ作品です。

できればIMAX劇場で観たかった。