『平成狸合戦ぽんぽこ』は戦後左翼運動群像劇・・・と勘繰って観ると面白い

平成狸合戦ぽんぽこ [DVD]

久しぶりに『平成狸合戦ぽんぽこ』を鑑賞した。

もう十回以上鑑賞しているが、歳を重ねるごとに捉え方が変わってくる稀有な映画でもある。

そんな「ぽんぽこ」を戦後左翼運動群像劇と勘繰って観ると面白いという話。

 

 

 

敗北した左翼運動群像劇

高畑勲監督といえば、東大卒のバリバリ共産主義者として名高い。

宮崎駿と出会ったのも東映動画労組とのこと。

ぽんぽこのストーリーは、そんな経歴を踏まえると「敗北した左翼運動群像劇」として勘繰って眺めることができる。

多摩ニュータウン開発計画=日米安全保障条約としてみたり、三里塚闘争や現在の沖縄基地問題として見ることもできる。

というか、昭和の社会運動全体として見たほうが良いかもしれない。

 

多摩の大自然で平和に暮らしていた狸たちが、人間の勝手な理由で住処を破壊される。

人間からすれば、都心部の過剰人口に対する住居問題や資本主義経済的な諸々の理由で行った「開発」であるが、当の狸からすれば「破壊」でしかない。

狸には憲法も法律もないが、この自然破壊は自らの種の保存にまで危険が及ぶ暴力行為であり、それが近代国家の権力として表されている。

たしかに今でも、格差がこれほど広がっているのにもかかわらず、消費税増税を「偉い人達のご都合主義」で実施されようとしている。

「人間=偉い人達」であり、「狸=庶民」と思えばわかりやすい。利権談合共産主義ともいわれる日本だが、昨今の情勢は財界や政治力の強い団体などの巨大な力のみで政治が動かされているように思う。

少子高齢化や就職氷河期世代などの問題をみると、気づいたときには森が切り開かれ、少ない食料を奪い合う羽目になっていた狸の姿が思い起こされる。

 

 

しかし狸は狸でこの難題に対して一致団結せねばならぬのに、組織はイデオロギーや主導権争いで分裂していく。

暴力的なテロ行為に走る権太、穏健派だが計画性に欠ける和尚、人間を甘く見ている四国の狸達、慎重すぎて日和見主義的な正吉・・・のように狸たちの抵抗運動は分裂し弱まっていく。

こちらも左翼運動の内ゲバによる自滅を物語っているように思う。

権太は連合赤軍っぽいしね。

 

妖怪大作戦こそ成功するも、それをうまくマネジメントできず、人間に良いように扱われてしまう。四国の狸たちの驕り=前衛党、化け学への盲信=マルクス主義、そしてマスメディアを利用した作戦が結果的に裏切られてしまうのも戦後左翼運動らしい姿だ。

狸たちは、(人間の)大衆を見誤った。化け学や妖怪大作戦をすれば、大衆はすぐに狸側につくだろうという過信だ。

狸たちは、敵である権力側の人間と仲間内のイデオロギー闘争しか考えておらず、大衆のリサーチや評価が全くできていない。

しかし社会運動とは、大衆を味方につけなければ決して成功しない。カストロのキューバ革命がたった10人程度の兵士から始められたにもかかわらず成功したのは、大衆の支持を得たからだ。そしてゲバラがボリビアで死んだのは、大衆の支持が得られなかったからである。

日本の戦後左翼運動の決定的な敗北要因は、左翼運動自体がエリート主義と内ゲバに終始したため、大衆の支持を得られなかったからだ。

 

結局、狸の運動は尻すぼみし、完全な敗北に終わった。

ここで重要なのが、変化できない狸たちだ。変化できない仲間を見殺しにしてなんとか生き残った狐のように、狸たちも決断が迫られる。

太三朗禿狸は、変化できない狸を集めて踊念仏の教祖となり、最期はそのまま信者となった狸たちを連ねて宝船に変化し、彼らと共に入水自殺を遂げた。

この描写は、子供の頃にはわからなかったが、時代に乗り遅れた狸たちの集団自殺の場面なのだ。

カルト宗教のようにも見えるが、「時代に取り残される人々は必ず存在していること」として捉えたほうが良いかもしれない。

まさに多摩の狸の存在危機にもかかわらず、変化できない狸たちは楽しそうに踊りながら死んでいく。社会的な死を受け入れて享楽的に生きる人々、社会に取り込まれて苦しむ人を見てあざ笑う世捨て人、そのような『広義な死』があの宝船の描写であると思う。

 

 

最終的に、変化できる狸は社会へ順応し人間として生きる道を選ぶ。

これは左翼運動を途中で逃げ出した人ではなく、左翼運動をしていたにもかかわらず体制側に付いた人を表していると思う。学生運動というブームが去ると、平然とまるで狸が化けるように敵側へ靡いていく人たち、これこそが人間社会で暮らす狸だ。

この二面性こそ、ジョージ・オーウェルの「一九八四年」の世界だ。狸が敵であった人間に化け、人間の社会で暮らしている。社会とは、そんな化かし合いで成り立っているのだ。

「姿を消した」と思われていた変化できない狸たちは、それでも狸らしさを忘れずに生きていた。変わり果てた自然の代名詞であるゴルフ場で、狸たちは以前のように踊っている。

この素朴な存在こそが、真の運動家であった・・・という敗北宣言。この残虐なエンディングは、昭和の左翼運動群像劇の姿である。

・・・というブラックユーモアかもしれない。

 

印象的なのは、最後に残された狸たちが力を結集して、故郷の懐かしい景色を再現する場面。

「あの頃は良かったなあ~」という郷愁に浸るのも束の間、団地のベランダに現れた人間の子供を見て現実に戻る狸たち。

人間の子供は「餌をあげたかった」と言う。本来、自然の中で自ら食料を得ていた狸だが、現代っ子からは餌を与える対象としか写っていなかった。

左翼運動は、「単なるノスタルジー」と「自活できない存在」として社会に認識されていた。

それが平成であった。

果たして令和はどうなるかな?

 

 

 

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以上のように勘繰って観ると、新しい面白さが滲む名作。

ブラックユーモアと見るか、ディストピアと見るか、それとも?

 

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