『シン・ゴジラ』を見たので評価・感想・オマージュ考察・ゴジラとは?・ゴジラと核などなど語ってみた。
ついに『シン・ゴジラ』を見た。
今回はネットでも高評価ということで、下調べ一切無しで映画館に突撃してきた。
見た結果・・・昨今の邦画の商業主義に開き直ってる感で悶え苦しんでいた僕に、突如降臨した『真・日本映画』だったよもうマジで!!!!
もう前置きなんかどうでもよいので、この素晴らしい映画について勘ぐりや考察やレビューを全部含めて語ってみようと思う。
初代ゴジラに近いテーマ
ゴジラシリーズはだいたい見てきたが、このシンゴジラは初代ゴジラに非常に近い。
初代ゴジラは1954年本多猪四郎監督によって作られ、戦後の日本が世界をあっと言わせた名作中の名作である。そして世界初の核兵器を落とされた国だからこそ描けた重厚な反核映画でもあった。
その後のゴジラはキングギドラやモスラなんかも現れて、怪獣映画になっていき大衆人気を獲得していく。
2016年のシンゴジラは初代ゴジラ同様、ゴジラ対人間がストーリーの主軸になっている。
会議映画
突如現れたゴジラに日本の政府から一般市民が右往左往しながら戦っていく。
と、言っても戦闘シーンより圧倒的に多いのが、『会議』なのだ。
もう会議ばっかり。民主主義だから・・・という以前に、我が国は有史以来会議が大好きなのだ。
ストーリーはこの「ゴジラ現る」→会議→「ゴジラ動く」→会議→「ゴジラもっと動く」→会議・・・という会議映画。
ハリウッド映画なんかでは「インデペンデンス・デイ」のように、会議は何も決められないから最後超かっこいいリーダーシップを発揮する大統領の鶴の一声で、人類の存亡を賭けた作戦を実行してハッピーエンド・・・となる。
だがここは日本だ。
シンゴジラは会議をコレでもかと一部始終見せつける。首相に情報が届くまで、現場→官僚→官僚の責任者→秘書→大臣→首相という流れを要す。もう見ていてクソ鬱陶しい。どうでも良い情報すら、首相に通るまで一貫してこの流れを繰り返す。
その度に大杉漣が度アップでビックリ顔を披露する。
これを「日本的会議」と名付ける。※日本会議とは違うよ
大臣連中はというと、自分の属する省庁や団体の顔色を伺ってばかり。ゴジラ(問題)の対処が目的ではなく、「如何に自分たちに面倒かからないよう穏便に済ませつつ、美味しいところだけ持って行き、だけれども自分たちの利権域には一切立ち入らせない」というのが至上命題だ。
主人公の一人、内閣官房副長官の矢口蘭堂(長谷川博己)は有望な若手政治家であり、頭も抜群に切れる。彼は大臣級でないので、この稚拙な会議を苦虫を噛み潰したような顔で見ている。
彼は会議の合間に正論をぶつけるが閣僚たちに鼻で笑われ、内閣総理大臣(首相)補佐官の赤坂秀樹(竹野内豊)に窘められる。
この矢口、赤坂は非常に有能な政治家であるにもかかわらず、大局的な視点を持てない大臣たちの下に置かれている。
これも日本的会議の特徴で、いくら有能だとしても、年功序列や派閥の力が上役を決めてしまう。
このジレンマを観客も共有する。
日本的会議がイライラするのは、『責任』の所在を皆で押し付けあっているように見えるからだろう。
だが日本という国の強みとは、この責任の所在を明確にしないことで、他分野の利害や権益を調整しながら、ベストではなくベターな手段に導いていくことだ。
大臣たちが発言するその一言とは、無数の人たちの駆け引きの結果でもある。
このメリットは「和をもって尊しとなす」だろう。独裁や独占を生まず、誰もがWIN-WIN(国民ではない)の関係になるような調整作用が非常に強い。
これこそ、戦後日本の一億総中流や終身雇用制を産んだ要因だと思う。突出したものを作らない均等な社会。日本は唯一成功した社会主義国と言われるが、その最もたる所以がここにある。
だがこの日本的会議のデメリットが昨今の日本社会を覆っている。
そしてその最大の「悪いところ」が出たのは、東日本大震災と福島原発事故だろう。
シンゴジラはこの震災後の後手後手に回った日本的会議の悪いところを映画で再現しているように見える。
ゴジラはまさしく地震や津波のような天災だ。初上陸時、海から川を遡っていくところなんか、まるで津波のようだ。
矢口が最初期に「生物」の存在を提言した時も、会議で一笑に付された。当たり前だろう。あんな巨大な生き物が、まして首都に現れるなんて誰も想像しないだろう。いや、想像したくないはずだ。そんなマニュアルなんて存在しない→誰が責任を取るのかわからない。
だがこれは福島原発事故と同じではないだろうか?誰もが日本の技術力に過信し、まさか原発事故なんてと誰もが思っていたに違いない。
こういう不測の事態に、日本的会議が如何に弱いかを、シンゴジラは見せている。
そんな会議映画の元祖こそ「日本のいちばん長い日」だろう。
かなりこの映画へのオマージュに近い場面もあった。この映画は、終戦を巡る政治家や軍の駆け引きと、結局は玉音放送という形で天皇に責任をとってもらわないと何も決められなかった日本的会議の極致が描かれている。
機動警察パトレイバー2 the Movie [Blu-ray]
- 出版社/メーカー: バンダイビジュアル
- 発売日: 2008/07/25
- メディア: Blu-ray
- 購入: 3人 クリック: 148回
- この商品を含むブログ (59件) を見る
そして特に自衛隊と憲法9条の取り扱い方を巡る場面はその最もたるところであった。
都市を蹂躙するゴジラに対して、自衛隊の攻撃を認めるかの是非を問う場面だ。
自衛隊の力を見せたい防衛大臣、シビリアンコントロールを順守して何も言えない自衛隊幹部、住民にもし被害が出たらと考えひいては政権批判に変わるのではと躊躇する首相。現場の自衛隊は彼らの決定をただ待つのみだった。
この自衛隊のジレンマは、押井守の「機動警察パトレイバー2 the Movie」に近い。
会議映画であったが、ただのエリート批判でも反知性主義でもない。
日本という巨大な国家運営システムのメリット・デメリットを白日に晒したという感覚に近い。
要するに完璧なんてものはないのだ。
自然な調整作用を重視した内閣と、それに合わせつつシステムの維持を図る官僚。御用聞き政治家と所属する省のことだけを考える官僚にも見えるが、やる時はやっぱりやってくれるという希望を最後のほうですこしばかり残していた。
日本的会議の権化のような里見祐介臨時総理(平泉成)の責任のとり方なんて(幣原喜重郎っぽい)、日本人にしかできないだろう。
初めはなぜここまで「専門用語だらけ」で「会議の細かな内容まで綿密に描くのか」と思った。
だが現状のシステムの暗部が顕になっていく過程とゴジラへの恐怖を対比させながらストーリーを進めていくことにより、ゴジラのスケールを画面からだけでなく本当に「実感」できる形で表現しているのだと思った。
会議で何とか決まったことが、簡単にゴジラによって覆され、常に後手後手に追いやられる。その度に過ぎ去った被害や徒労感、そして限界を味あわせていくのだ。
まさに会議とはゴジラの存在を際立たせるにはもってこいだったわけだ。
キャスト
このブログでも何度も書いているが、最近の漫画原作✕アイドル主演な邦画にはもうウンザリしていた。漫画原作やアイドルを批判しているんじゃなくて、安易な商業主義に開き直ってる感を恥ずかしげもなく露わにしている映画会社が何とももどかしかった。
特に配役だ。もう原作ファンを無視したコケて当たり前なキャスティングを、事務所のパワーバランスか何だか知らないがでぶつけてくるのは辞めてくれ!
マッドマックスの主演の吹き替えがエグザイルだったのには、イモータンジョー様も大笑いしたことだろう。
だがシンゴジラ、日本の俳優はすごい!って再確認できた。
主演級はもちろん、特に際立ったのは首相や大臣を演じたあの老獪な演技。
大杉漣と柄本明の目線だけの掛け合いとかたまらなかった。國村隼人、矢島健一、渡辺哲、光石研あたりの渋いおじ様たちはさすがの安定感。
先ほども出たが、平泉成の深々としたお辞儀なんて、あの角度、醸し出す空気、ほんの数秒だが最高の演技だった。
全体的にエリート専門用語だらけな無表情官僚や変人専門家なんかの似たようなキャラクターが多かったが、誰もが個性的で集団に埋没していなかった。これはすごいことだと思う。
けっこう有名な俳優がチョイ役で出ているところも、日本のいちばん長い日に似ていた。
唯一賛否両論な石原さとみ。
僕もちょっと微妙だと思う。クウォーターにしては骨格が日本人すぎるし、役どころの変な英語交じり日本語がわざとらしすぎる。※僕の理想イメージはケイン・コスギのしゃべり方。
「彼の国」の威圧感を体現できていたかというと微妙だが、ツンデレ日本寄りと見ればよかったのだろうか?
オマージュ
庵野監督といえば岡本喜八なんかのオマージュが大好きだが、このシンゴジラにも数々のオマージュがあった。
まずいちばん僕が嬉しかったのが、自衛隊ヘリコプター出動シーンの「地獄の黙示録」っぽいところ。まさか日本の自衛隊であの名シーンが見れるなんて!
まあヘリコプターがたくさん飛べばどれも同じようなシーンになる・・・とは言わないでね!
ゴジラの生みの親?でもある牧教授(写真は岡本喜八)が、「機動警察パトレイバー 劇場版」の帆場暎一みたいなのも良かった。その後の彼の残したメッセージを推理していく辺りなんかまさにでした。
オープニングや途中の音楽が完全にゴジラシリーズだったところ。こういうのをリスペクトと言うんでしょうか?
「ヱヴァンゲリヲン」はオマージュというか、シナリオにも深く関与している。ヤシマ作戦なんかもうね。でもそこは開き直ってエヴァの音楽を使っている辺りは、ファンにニヤリとさせたい演出か?
あとゴジラの背中から出る対空ビームは「トップをねらえ!」のガンバスターっぽくもある。
かといって庵野監督の作品だから、厳密には何と言うのだろうか?
ネットを探ればもっとマニアックなオマージュがあるようだ。推測でしかないが、そこが映画ファンの大好物な『映画の後味』というやつなのでご了承を。
核
初代ゴジラが反核映画だったのは言うまでもないが、ゴジラは核とは切り離せない。
そして核と日本人も切っても切り離せない。
史上初の被爆国であり、アメリカの核の傘で守られ、原発事故を起こした国、それが日本だ。
非核三原則などを唱えて世界から核廃絶を訴えるのも日本であるが、一番訴えないければならない「彼の国」の核によって生かされてきたのも日本だ。
無論、今回の映画でも途中無音でキノコ雲や被爆者の写真が映しだされたように、核をテーマにした作品とも言える。
シンゴジラでは、日本の核に対する立場である①反核②エネルギーとしての核③兵器としての核という3つを丁寧に描いている。
①反核
ゴジラが出現したあと、その通った経路では放射線反応が見られた。
これにより市民はパニックとなり、玉石混交の情報が入り乱れ、政府は嘘の報告をする。このシーンはまさしく福島原発事故のそれだろう。
そしてゴジラが核によって生まれ、生きていることが判明する。
それにより政府は慌てふためく。
なぜなら核は日本人にとってタブーだからだ。
これは非核三原則のような反核としての日本の立場である。
②エネルギーとしての核
ゴジラの情報をアメリカなどの各国が奪い取ろうとしてくる。
調査の結果、ゴジラには全く新しいエネルギーとしての核という側面が判明したのだ。
そうなると、タブーであった核を「有効利用」しようという人々が出てくる。情報をアメリカに奪われることに憤りを感じるものもいる。
だがこの時点で、反核というイメージは無い。新たな核兵器へと変わるかもしれないという歴史の反省を全く感じていないのだ。
核の「有効利用」という文が、反核というメッセージを一瞬で曇らせてしまう。
③兵器としての核
ゴジラが止められないと露呈され、ついに国連という名のアメリカは核兵器の使用を決断する。
首都に核兵器が落とされる、しかも唯一の被爆国である日本の首都に、またあの彼の国「アメリカ」が核を落とすというのだ。
そんな時にも、日本人は何も言えなかった。
結局、核を落とされたことで日本はアメリカに一切何も言えない国になってしまった。
そしてそんなアメリカの核こそ、戦後の日本の平和の大黒柱であったことは、周知の事実である。
映画では核以外の手段でゴジラを倒すそうと努力するが、誰もが最終的な解決は「核」しかないとわかっていた。
この3つの日本の核に対する立場を巧妙に映し出す。
そこから見える日本と核の姿、それは「核憎し、されど已む無し」ではないか?
それこそ日本の戦後の真のタブーではないだろうか?
日本は核によって滅ぼされ、そして核によって生かされてきた。
核について白黒はっきりつけることができないのだ。
そんな核との対峙こそが、ゴジラを生んだのだ。
ゴジラ
「シンゴジラ」のゴジラとは何か?
まず勧善懲悪で捉えられる存在ではない。町を破壊するゴジラは、我々から見ると悪であるが、その意思は何なのか?というより意思があるかも定かで無いというスタンスがシンゴジラのゴジラであった。
そして人間が知恵を振り絞っても、ゴジラは常にその上を越えていく。シンゴジラでは、そんな人間の無力感が終盤まで続いていく。
先程も書いたが、今回のゴジラは『自然』のように見える。天災と同じ自然、自然の圧倒的な猛威のような存在である。
その自然を核で汚染したことでゴジラは生まれたことになっている。
これは環境破壊と核に対するアンチテーゼとしてのゴジラだ。
最後の場面のゴジラの尻尾にいた人型の姿。あれは原爆によって焼かれた被爆者のようにも見える。
そしてゴジラは無限生殖して世界に拡散するという設定であった。これは核兵器と同じだ。
ゴジラは人間が生み出した『恐怖』が具象化した存在とも見て取れる。
かつて人間にとって自然は恐怖であった。科学技術の進歩でそれは薄れた。
だが科学技術の進歩で核兵器という新たな恐怖が生まれた。
意思のないゴジラの圧倒的な暴力は、東京という人間が創りだした都市をいとも簡単に破壊していく。
その恐怖は、現代人が内包している恐怖のように思える。どれだけ技術が進歩しようと、それを覆すほどの天災が起こるかもしれないし、技術の進歩によって新たな恐怖が生まれるかもしれない。
それを忘れたかのように平和に便利に暮らしている。だがその恐怖はずっと脳裏でくすぶっているのだ。
ゴジラが町を破壊し、最新兵器を跳ね返す様を見て感じる恐怖と少しの爽快感は、そんな「ほらやっぱり」という感情があるからかもしれない。
かつて人間はそんな得体のしれない恐怖を『神』とした。
今回「荒ぶる神・呉爾羅」として名付けられたのがクローズアップされたのも、そんな意味があるからかもしれない。
まとめると、ゴジラとは「人間が思う恐怖がもし具象化した存在ではないかという仮説でした。
まとめ
まあともかく良かった。
ここ数年の映画の中でも特に良かった。
まさに映画らしい映画でもあった、初代ゴジラの衝撃を、2016年にまた味あわせてくれるなんて思っても見なかった。
結局のところ、人間讃歌の映画だったとも思う。
そして日本讃歌でもあった。最近の安易すぎる日本礼賛ナショナリズムではなく、日本の負の部分も含めた「それでもやっぱり日本は良い国じゃないか」というメッセージが込められていると思う。
まだまだ考えさせられることが多い映画であったが、このご時世にこんなテーマの映画が流行るってことは、日本はまだ捨てたもんじゃないぞ!と思わせてくれた。
そして・・・・エヴァの続きお願いします。
Amazonプライム会員になれば見放題になりました!一度見ただけではわかりにくい映画なのでおすすめです。
そしてそしてこちらもオススメ。