「28日後・・・」の足の速いゾンビになぜスカッとしてしまうのか。
引き続きAmazonプライムで映画漬けの日々。
鬼才ダニー・ボイル監督とただ今「エクスマキナ」が話題のアレックス・ガーランド脚本のゾンビ映画「28日後...」
低予算ながら、こりゃすげえ映画だ。
前置きなんていらねえ!
イギリス人は足が速いゾンビがお好き
足が速いってのは、中学生くらいまではヒーローである。
なぜなら裸足で走ろうが、瞬足を履こうが、速い奴は速い。
もう無慈悲に速いよね。
僕のような鈍足野郎は、歓声を浴びながら風の様に走り去るスピードスターを見て、そりゃものすごく挫折感を味わったものだ。
足の速い遅いってのは、一番最初に訪れる挫折の内の一つだ。
生まれ持って速い奴は、もうロシア陸連もびっくりなくらいバケモノだった。
そして僕たちは、世の中生まれた瞬間に能力に違いがあることを悟るのであった。
そう、最初の無慈悲な格差感!
そんなチャーチルも絶対越えられないのが、足の速さである。
そしてイギリス映画のゾンビはすんげえ足が速い。
ショーン・オブ・ザ・デッドみたいなスプリンター型ゾンビがその典型であり、駿足ゾンビ映画の至宝がこの「28日後・・・」なのだ。
ゾンビといえば「くさった死体」や「バイオハザード」がステレオタイプな日本人では、ゆっくりと腐り落ちながらペタペタと歩いてくるのが「ぞんび」である。
多分、街角で「すいません。100万円あげるのでゾンビの真似してくれませんか」と聞くと、老若男女「あーあー」とか言いながら、ゆっくり歩くんじゃなかろうか?
でも同じ質問をイギリス人にすれば、全力で走りだすかもしれない。
「すいません。インド総督にしてあげるので、ゾンビの真似してくれませんか」と聞くやいなや、老若男女「ぎゃあああ」とか言いながらトレインスポッティングのOPみたいに走っていくんではないかと・・・
「28日後・・・」のゾンビ
当映画のゾンビはすこぶる足が速く、そして凶暴である。
この原因がウイルスなんだが、それがパンデミックった原因がイギリス紳士の嗜みブラックジョーク炸裂で最高なのだ。
ある研究所でチンパンジーを凶暴化させる実験をしていたのだけれど、動物愛護団体が施設内に侵入して可哀想なチンパンジーたちを開放する。
そのチンパンジーは凶暴性が増幅される感染症にかかっており、助けてくれた動物愛護団体の人間を次々に襲い、そのウイルスが一気に広がっていく・・・というまさにブラックジョーク!
日本なら「たまちゃんを守る会」とか「パナウェーブ研究所」みたいな連中かな?
凶暴ウイルスは一気にイギリス中に広がっていく。
このウイルスに感染すると、数十秒で凶暴になり、人を襲い始める。もうキレやすい最近の子供達もびっくりだ。
凶暴性が高まると、ものすごく足が速くなり、バットなんかでぶん殴られても割と平気なくらい超人化する。
よくある「リミッター解除」のようなものだろう。
イギリス・ゾンビはこのリミッター解除が多い気がする。
社会的動物としての理性や自然界の範疇に止めようとする抑制から開放された人間の本来の力、それがゾンビ化という現象なのだ。
火事場の馬鹿力でサザエさんが身の丈より大きいタンスを担いで出てくるあれと同じだ。
それがゾンビ。
人間の凶暴性を語る上では外せないゾンビという概念
※ここからネタバレ
こういう人間が理性を失い凶暴化するような話は決まって、「人間の本来持つ凶暴性」を語るテーマになりやすい。
「何らかの影響で獣のようになってしまった人間から身を守るために取る行動こそが、さらに凶暴だった」的な天丼である。
この映画も、ちょっと感染しただけでさっきまで仲良ししてた友達をナタでぶった切ったり、ゾンビの生態を知るためにゾンビ化した仲間を実験台に使ったり、ゾンビから守ってやる代わりに女性を奴隷にしようとしたり・・・
象徴的なシーンは軍隊との最後の戦いで、血みどろになった主人公ジムを、仲間であり助けてもらったはずのセリーナやハンナがゾンビ化したと疑ってしまうところなんか最高だね。
ジムはセリーナたちを守るために、同じ人間である兵士たちをむごたらしい方法で殺した。
その返り血を浴びた姿はまさしくゾンビであった。
でもこれは安っすいシナリオだ。
人間は凶暴で獣と変わらないなんて、シリアの内戦でも見ればすぐにわかる。
ISなんてこの映画のゾンビより、何倍も獣に近い。
だがこの映画がなぜこんなに心を突き動かすのか!
それはやっぱり、獣へのあこがれだろう。
ゾンビになりたい人々
結局、人間は獣に戻りたいのだ。
あのリミッター解除されて大暴れする凶暴な人間たちを見て、恐怖しつつもどこか憧憬の眼差しを禁じ得ない。
肉体的な強靭さ、理性の欠片もない欲望に従順な姿、あれこそ自由なのだ。
だから集団で襲い掛かってくるゾンビの群れはイカれカッコいいと感じるし、鎖で繋がれたゾンビが可哀想に思える。
残虐ゲームやグロ画像なんかを怖いもの見たさで覗いてしまうのも、そんな自然への回帰という欲求がある。
そもそもそういった反社会的な行為は大なり小なり行ってみたくなるもんだ。
社会とそれを維持するための法律によって守られた現代、安住に暮らすのはとても簡単になった。
だが逆を言えば、その安住さのために人間は獣の香りを捨てていったわけだ。
安住に暮らすために人間は高度に発達したが、その過程で捨て去ったものが「ゾンビ」なのだ。
何かの本で読んだが、反社会的な行為や人間を排除しようという感情は、社会に見えない暗黙の協定があるからだという。
例えば歩道もない道を歩いている。すぐ横には車がびゅんびゅん走っている。
でも歩いている人は、特に気にも留めないで歩き続ける。
だがこれってすごいことなのだ。車の運転手がちょっとハンドルを切るだけで、自分は殺されるかもしれないのに。
ここに暗黙の協定がある。
「交通ルールは皆が守っている」という協定だ。
この協定がなければ、怖くて外なんか出られやしない。
交通ルールを破れば警察に捕まり、相応の罰を受ける。そこに大きな損がある。
みんなが町を安心して歩くために交通ルールがあり、それをみんなが守っているという前提で人々は歩いているのだ。
だからこそ、反社会的な行為や人間を排除しようという力が強く世を覆っている。
イレギュラー=何をするかわからない奴であり、みんなの前提を破壊しかねない要因だからだ。
この協定に参加しないと、我々は社会の中で暮らすことができない。
これは安心だが、苦痛でもある。
スッポンポンで渋谷を歩きたいとか、阪神が優勝しなくても道頓堀に飛び込みたいとか、税金で正月家族旅行に行きたいとか、それ全部「ダメ!絶対!」なのである。
このストレスをふっ飛ばしてくれるのが、「足の速いゾンビ」なのだ。
ゾンビという自由な存在が、我々の見えない衝動的欲求を発散してくれる。
だから「足の速いゾンビ」の野蛮でグロテスクな行いが、なぜかスッキリするのである。
せっかく手に入れた安住で快適な生活、だがその代償として捨て去った野蛮性、結局人間は無い物ねだりの大きく振れる振り子のようなものなのだ。
そのために映画があるってもんだ!
ついでにパンデミック後の荒廃した町の中を車で走るシーンもその副産物だ。
交通ルール無視で町中を走り、無人のスーパーマーケットで欲しいものを盗む。
あ~快感!
セーラー服で機関銃ぶっ放すくらい快感あんだろうなあ~と思ってみてしまう。
だから僕はアイアムアヒーローの主人公の偽善的行いがしっくりこない。
あのマンガの主人公は、ゾンビに支配された世界でも、以前の生活のルールを守ろうとしている。
あの先生がいない自習の時間にもかかわらず、黙って復習をし始めた奴に感じるちょっとした憎しみ。
でもそういった感情を起こさせるのが狙いなのかもしれない。
まとめ
世界がゾンビに支配されたら・・・高校生の授業中ずっと妄想していたなあ。
「まずは近所のスーパーマーケットで缶詰をかき集めて・・・ガソリンを盗んで・・・車はワゴンを盗んで・・・窓は補強して・・・」
ああいう妄想って自分は絶対生きてる設定なんだよな。そして嫌いなやつから真っ先にゾンビになるという流れ。
ゾンビは人間を魅了し続ける。