『スリー・ビルボード』は究極のブラックコメディ

スリー・ビルボード (字幕版)

久しぶりの「やられた~映画」であった「スリー・ビルボード」!

鑑賞後のなんとも言えない余韻は、Wikipediaでマーティン・マクドナー監督がブラックユーモアの天才と書いてるのを見て、すべてが丸く収まった。

この映画は、ブラックコメディだったのだ。

イギリス人(監督はアイルランドとの二重国籍だが)らしいブラックな風刺は、かのモンティーパイソンのような切れ味で、アメリカという国をぶった切っている。いや、お尻をブスブス刺しまくっている感じか?

 

 

 

 

あらすじ&解説

映画は「娘をレイプ殺人された母親が、一向に犯人が逮捕できない警察に対して、3つの広告板を使って訴えかける」ところから始まる。

無残に殺された娘の復讐を誓う母親ミルドレッドは、怠慢な地元警察の署長の名前を広告板に書き込んだ。

ここまでみたら、『普通なら』どう思うだろうか?

不憫な母親、怠慢で無能な警察、もしや署長が事件に関係している?・・・

 

だが、この映画はそんな雰囲気を漂わせておきながら、一気に破壊する。

「署長がむっちゃ良い奴」なのだ。署長は部下や地元住人に慕われ、美しい妻と二人の娘を持つ優しいパパ。

しかも末期癌で余命数ヶ月の哀れな身。

あれ?全然話が違うじゃん。

そう、鑑賞者は思うだろう。

だが、監督はそんなあなたにこう言うだろう。

「署長が悪い奴だなんて言ってないけど」と。

 

 

ここで急に「不憫な母親だと思っていた主人公が、余命僅かな優しき署長を広告で追い詰めている」という図式になる。

鑑賞者は違和感で首がヒクヒクしてくる。なんかおかしい。

 

ミルドレッドの復讐はそれからさらにサイコパス度を増していく。

ミルドレッドはトラブルメーカーとなり、あらゆるところで問題を起こす。だがそれが、一見したところ怪しい人物たちの協力のおかげで何だかんだ助けられていく。それはチャラい黒人の兄ちゃんであったりするのだが、まあともかく普通の映画では「怪しい人物」らしいキャラクターなのだ。

ミルドレッドは暴虐の限りを尽くし、元夫の車を勝手に売り、マスコミを呼び騒ぎを大きく仕立て、息子のクラスメートの股間を蹴り上げ、最終的には警察署へ火炎瓶で放火までする。

 

だが、その「敵」は一向に見えてこない。

本来の敵は娘を殺した犯人だ。だが、ミルドレッドは犯人を逮捕できない警察を敵にした。しかし、その警察は別に汚職やVIPの罪隠しをしているわけではなく本当に犯人の見当がつかないだけであった。

挙句の果てに、その首魁たる署長は素晴らしく良い人なのだ。

ミルドレッドの怒り、復讐はどんどん空回りしていく。

 

 

もうひとりの主人公は、ディクソン巡査である。

この映画の舞台はアメリカ中部のミズーリ州にある架空の田舎町となっている。

ここは経済的に貧しく、保守的な白人が多く住む地域であり、トランプ大統領の大票田となっている。

ディクソンは、まさしくこの貧しい田舎の白人のステレオタイプであった。

レイシストで黒人差別は当たり前の暴力的な人間。警察学校を留年しながら何とか卒業し、こちらもレイシストの母親とのふたり暮らしである。

 

 

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

 

ディクソンはまさしくトランプ大統領を生んだアメリカの暗部である。これは「ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち」に詳しい。

そんなディクソンなので、ミルドレッドとの諍いは火を見るより明らかだ。ディクソンは署長を心底慕っており、そんな署長を攻撃する主人公を許せなかった。

そんな時に、署長が自殺してしまう。ミルドレッドの広告が原因ではなく、病気のことで家族に迷惑をかけたくないとの判断であった。

これで、世間は一気にミルドレッドを「敵」にする。世間はミルドレッドの広告が、署長の自殺の原因ではないかと感じていたのだ。

ディクソンは署長の自殺を知り怒り狂い、その足でミルドレッドに広告板を貸したレッドという青年をボッコボコにした挙げ句、2階の窓から放り投げて大怪我を追わせてしまう。もちろんクビになる。

自暴自棄になったディクソンだが、かつての同僚からの電話で自殺した署長からの手紙を取りに深夜の警察署に向かう。

そこには署長からの励ましの言葉が書かれていた。粗暴で短絡的で全く評価されていなかったディクソンだが、署長は彼をしっかり見ていてくれたのだ。署長の手紙には「愛」を大事にしろと書かれていた。

そんな時、狂戦士と化したミルドレッドの火炎瓶放火が始まり、ディクソンは大やけどを負う。

だが、ディクソンは運び込まれた病院で、自らが大怪我を負わせたレッドに優しくされることでコペルニクス的転回=愛戦士にクラスチェンジするのであった。

 

その後、ディクソンは放火の下手人がミルドレッドと知りながら、ミルドレッドの娘の事件の犯人と思しき男に出会い、わざと喧嘩をして男の皮膚を手に入れDNA検査にかける。

だが結局、この男は犯人ではなかった。男は酒場で女性をひどいやり方で殺したことを自慢していた。ディクソンはてっきりミルドレッドの娘のことであると思ったが、実際は男は事件当時軍人として某国にいたことを知る。

 

その後、ディクソンは宿敵ミルドレッドと共に、その男の家に向かう。銃を持って・・・

というところで終わる。なんちゅう映画や!

 

 

善悪を弄ぶブラックコメディ

序盤の同情を誘う被害者であるミルドレッドが最終的に完全な悪役となり、逆に序盤絵に書いたレイシストコップ・ディクソンが最終的にはすごく良い奴になる。

周辺人物も、一見・・・本当に見た目だけだと悪役や裏切り者っぽい人たちが、ミルドレッドやディクソンに優しく接するすごく良い奴らばかり。極めつけは何か企んでいそうな警察署は何の変哲もない普通の田舎警察署だった。

これが見ていて頭がおかしくなりそうなのだ。

この違和感こそ、監督のブラックユーモアであり、差別や憎しみの温床になっている。

 

なぜ違和感を感じるかというと、この映画が人間の「思い込み」を厭味ったらしく刺激してくるからだ。

人間は国や文化で違うが、誰しもが一定のイメージを持っている。それは経験則で危険を回避する人間の本能でもある。

例えば、日本だと入れ墨=ヤクザだ。入れ墨がある人は、怖い人、危ない人だと思われる。これは実際に入れ墨がある人に殴られたわけではなく、そう思い込んでいるからだ。そのイメージの源泉は、ヤクザ映画かもしれないし、バラエティ番組かもしれないし、親や友人から聞いた単なる話かもしれない。

でも入れ墨がある人が全員ヤクザで危険な人物というわけではない。だが、もし犯罪が起きた時にその場にいる人の中で入れ墨がある人がいた場合、真っ先に怪しまれるだろう。

その入れ墨のある人が、この映画の署長のような良い奴だとしても。

 

鑑賞者は、ミルドレッドを娘を冷酷な犯罪で失った哀れな母親=善と「勝手に判断」し、広告で批判された署長=悪と「勝手に判断」した。

キャスティングも上手で、ミルドレッドの敵になる人物の配役は、何となく悪そうな雰囲気の俳優が選ばれている。

そして、二人の主人公が初めのイメージを自己破壊していく様を見せながら、更に輪をかけて周辺人物をイメージとは逆のキャラクターとして徐々に描いていく。

要するに、善悪のイメージが如何にテキトーーーーなものかというのを、ブラックユーモアとして見せつけているのだ。

 

奇しくもアメリカは現在、この善悪のイメージだけにより政治が大きく荒れている。トランプが上手なのは、この映画の手法を政治に利用しているからだ。

トランプは、「ディクソンのような現状に不満を持つ白人=一番人口が多い」に目をつけた。トランプは、彼らをアメリカの発展に取り残された被害者として持ち上げた。そしてその原因の矛先を、有色人種やエリートに向けたのだ。

これはヒトラーの手法と全く同じである。第一次世界大戦で破れ、没落した旧軍人に向けて、ヒトラーはユダヤ人を生贄に捧げた。

人間は、こんな簡単なイメージ操作にコロッと騙される。

まさにブラックコメディである。

 

 

 

現代を風刺したブラックコメディっぽいところ

向かうところ敵なしのミルドレッド母ちゃん

ミルドレッドは好き勝手やって犯罪行為を繰り返しているが、一向に咎められない。逮捕されてもすぐ釈放される。ミルドレッドは町のトラブルメーカーだ。ミルドレッドに関わると、何をされるかわかったもんじゃない。しかも彼女は哀れな被害者でもあり、マスコミにも取り上げられた人物。

これは、行き過ぎた反差別運動を風刺したものだと思う。アメリカにおける女性や同性愛者や黒人差別問題が最近メディアに大きく取り上げられている。これはたしかに酷いし、日本でも起きていることだ。

だが、中には行き過ぎた運動となっているものもある。何かのニュースで見たが、ある雑誌で「男が新聞を、女がゴシップ誌を見ている絵」が女性差別運動家により批判され問題となったというのを見た。

何でも女は新聞も読まないでゴシップ誌ばかり見ているという描写が女性差別であるということだった。

なんじゃそりゃ?さすがにそこまで勘ぐられたら、もはや表現の自由は不可能だ。

だが、最近のMeToo運動のような大きな潮流の中では、訴えられたらすぐに撤回せざる負えない社会情勢となっている。たしかに反差別運動は有意義であるし、差別が無くなるよう世界が努力すべきではあるが、行き過ぎた運動が新たな差別主義を生んでいるようにも思える。

 

黒人新署長

署長自殺後、怒り狂うディクソンがレッドをボッコボコにする様を見ていた黒人に、「何見てんだよコラ!」と恫喝する我らがディクソン。

残念ながら、その黒人が新署長なのだ!

この映画最大の爆笑シーン!!!!

でもこれってディクソンのような劣等感バリバリの白人が、日々感じていることかもしれない。

黒人はずっと差別されてきたし、今でも差別され警察に射殺される事件がいくらでも報道されている。

だが、トランプ大統領誕生の原因の一つには、オバマ前大統領による弱者の救済があるといわれている。弱者とは差別されてきた人々や貧困者である。オバマケアなんてのはその一例だ。

だが、これがディクソンのような白人層には我慢ならなかった。自分たちも、自国内の産業が廃れ、貧困にあえいでいる被害者なのに。

しかし、差別行動の締め付けは厳しくなり、マスコミから徹底的に攻撃される。南部の警察なんかは特にすごい。

差別は良くないが、この白人層の不満や怒りが向かった先がトランプ大統領だった。

 

他にもブラック風刺は数あるようだが、実際アメリカに住んでいる人にしかわからない小さなネタが多いらしい。

 

 

 

まとめ「トランプ大統領を生んだ国アメリカへのブラックユーモア」

結局、この映画は「トランプ大統領を生んだ国アメリカへのブラックユーモア」だと思う。

なんせあのトランプ大統領だ。ブラックコメディが現実になったような存在である。

世界中があんぐりした。まさにこれがUSA!!!

監督はこのブラックコメディが現実になったアメリカに興味を持ち、この映画を作ったのではなかろうか?

なので、舞台をトランプの大票田である中部アメリカを選んだのではないのだろうか。

そしてこれは単なるトランプ批判ではない。

アメリカの暗部を描くと見せて、徹底的にこき下ろす。ブラックユーモアたっぷりに。この映画はブラックコメディをブラックコメディにするという、まさに究極のブラックコメディなのだ。

 

なのでラストの二人の行動の解釈は、なかなか難しい。

「止められなくなった行き過ぎた運動が迎える自暴自棄的な暴挙」なのか、「復讐の果てにたどり着いた安息」なのか、これは見る人によって違うのではなかろうか?

兎にも角にも素晴らしい映画。ぜひご覧あれ!

 

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