生き辛さは社会システムのせいなのか?~システムとは何かを考える~
nounai-backpacker.hatenablog.jp
以前、少子化問題でも触れたのだが、「なぜ日本(現代社会)で生きるのがこんなにしんどいのか」を最近深く考えていた。
それは現代社会を覆う複雑怪奇なシステムが原因だと思っている。
これは大抵の人が同じだろう。なぜか現代人は、「何か」によって急かされ、動かされている。これが辛いと感じる人は、意外に多い。
この「何か」は「システム」と表現するしか無い。
だがこのシステム、複雑巨大すぎてよくわからない。我々はよくわからないものによって苦しめられている。
今回は、このシステムを僕に教えてくれた角幡唯介の脱システム論と共に、システムとは一体何なのか探ってみることにする。
システムとは?
システムについては、哲学や社会学なんかでも腐るほど語られているが、真相を突いているのは冒険家である角幡唯介である。
システムの対極にいる冒険家だからこそ、システムが何なのかがわかるのだ。冒険とはシステムの外に出ることであり、冒険の中でシステムの内の事を深く考えることができると角幡氏は言っている。
「新・冒険論」は、脱システムとしての冒険を語った著書であり、システムの外からの視点を得ることができるのでオススメ。
では、この著書を軸にシステムとは何かを考えていく。
さて、システムとは何なのか?私なりに一言でいえば、それは人間の行動を管理し、制御する無形の体系のことだ。
このシステムはいくつもの構成要素が複雑に絡み合い、渾然一体となって構成されている。
初期のシステム
システムは古代より存在した。だがそれは現代より単純で素朴だった。
宗教学者ミルチャ・エリアーデは、近代以前の原始宗教的な時代は、世界=聖なるものが顕現する地点が中心にあり、それが聖地となり人が集まることによって都市ができていったという説を唱えた。
聖なるものが顕現する世界=コスモス(宇宙)だ。
この聖地を中心としたコスモスでシステムが創造され、行動様式、習俗、社会文化や生活規範などを一定のベクトルに向けて統合していく。
方向づけがなされることにより、社会に秩序が生まれ、人々は不安を感じず暮らすことができるようになった。
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「サピエンス全史」であったように、人間は農業を始めた結果、集団生活を営むようになる。農業は大規模な公共事業が必要だからだ。そこで虚構を使って、人々を集め、都市を作り上げた。人類の文明はこうして生まれた。詳細はリンクを見てくだされ。
システムの成り立ちを要約すると、初期のシステムとは人々が安全を求めた結果生まれたものだったのだ。
人々は不安定な狩猟採集生活(じつは違うのだが)を辞め、農業定住生活を集団で行うようになった。
しかし農業定住生活に移行したことにより、新たな不安が生まれた。
収穫(未来)の不安により時間概念が生まれたからだ。
この安全欲求の満たされないストレスこそが、政治や社会の土台となった。余剰食糧を得ることで、エリート層や支配者が生まれ、高度な社会が作られていく。
高度な社会を運営するために、「想像上の秩序=宗教・法律・道徳など」と「書記=税金の記録→官僚性」が生まれる。ホモ・サピエンスは、本来生物学的にはありえない大規模な協力ネットワークを、この2つの発明を駆使することで可能にしたのだ。
こうしてシステムの土台が出来上がった。
聖なるコスモスから始まったシステムは、農業定住生活が大規模化し、都市が生まれることで、次第に複雑巨大化していくことになる。
バビロニアでは税金の管理から官僚制が生まれ、そして文字や会計システムへと発展していく。
灌漑やピラミッドなどの巨大な公共工事、数万人がぶつかり合う巨大な戦争、キリスト教などの一神教の誕生・・・システムは自己増殖しながらやがて拡大していく。
現代のシステム
この聖なるコスモスは、近代化により消滅した。
以下に「新・冒険論 」から引用する。
だが、現代の複雑化した社会においても、人類は同じように、目に見えない無形の体系によって思考や行動を制御されて生きている。
科学技術や消費社会の進展により聖なる力によるコスモスは消失したが、それに変わって現代を覆うのは、より複雑巨大で掴みどころのない、システムという無形の体系である。
コスモスが消失した現代のシステムは、わかりやすい「聖なる力」ではなく、複雑で重層的な社会になっていく。
政治、科学、経済、宗教という巨大システムの中に、交通網などのインフラを制御するシステム、学校や会社という小さなシステム内の数々のルール、更に最近は情報革命によって複雑重層化に拍車がかかっている。
こうしてみると人間の社会は、無限ともいえる様々な要素が幾層にも別れて複雑に錯綜し、絡み合い、渾然一体となり、さらに大きな目に見えない総体としてのシステムとなって生き物のように蠢いている事がわかる。
システムは我々の行動や思考を制御し、方向づける無形の文系であるが、それは我々人間側から見るとシステムによって考え方が方向づけられ、それに沿って行動するよう仕向けられているということでもある。
気付かない内に考えや行動が仕向けられている事の例として、携帯電話が挙げられている。
携帯電話がない時代、我々は待ち合わせは場所と時間を指定し、急用のため行けなくなった場合はどうしようもなかった。
だが携帯電話が普及し始めると、我々は携帯電話があるという前提で行動規範を変えていく。
携帯電話(スマホ)があれば、待ち合わせ場所や時間は適当で良くなる。今どこにいるか、暇な時間はいつか、そんな事を確認し合うだけでリアルタイムに調整できる。
こうなると、携帯電話により社会システムが変わっていく。携帯電話が普及する前と後で、生活や仕事は大きく変わったはずだ。
今はGPSも誰でも使うことができる。
GPSがあれば、地図を覚えなくなる。かつて人間は、星や地形を頼りに移動し、近代でも紙の地図た六分儀を利用して移動していた。今やそんな技術は不要となっている。
そうなると、人間は本来持つ能力や習慣を、技術やシステムによって変えていく。僕は子供の頃に鉛筆をナイフで削ったことがないということで祖父に驚かれたが、最近の子はLINEやGPSを扱えないと話にならない。
この数十年で、我々は鉛筆をナイフで削ったり、道を覚えたり、わからないことを辞書で調べるといった行動を捨て去っている。
こうなると、脳すら変化してしまう。脳はエネルギーの浪費家であり面倒臭がりなので、使用しないニューロンの連結はすぐに捨ててしまう。
もし今のシステムが進化していけば、人間の脳の空間認識能力を司る部位は退化していくだろう。その空いた空間は、スマホとGPSが埋めてくれるからだ。
システムは、脳すら制御し始めている。
以上をまとめると、システムとは集団で人間が暮らすために生まれた。
集団で暮らすことで安全が得られる代わりに、人間は本来の生き方をシステムに受け渡した。
現代はシステムが複雑化し、もはやシステムにより生活から脳まで変化させられている。
現代システム史
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現代システムは資本主義と共に発展したのはいうまでもない。
資本主義の発展は上記リンクに譲るとして、資本主義思想で一番重要なのは、『投資することで富が生まれる』ことだ。
近代以前は神や聖書によって全てが決められているという運命論的な世界観が常識であった。
当時の最先進国であった中国は、今の時代では考えられないが、「すでに満たされた状態」であると自他ともに認めていた。
中華は世界の中心であり、これ以上のものはないという中華思想だ。
現在のような、「経済発展や技術革新により人々の暮らしが良くなる」という思想はほんのつい最近できたばかりなのだ。
「今よりももっと」という欲求は、農業定住生活の始まる原動力になった。資本主義はそれを爆発的なスピードで実現化し、「未来は更に良くなる」という幻想を生んだ。
この「未来は更に良くなる」という思想は現代では非常に根深いが、これこそシステムを巨大化させた資本主義の原点である。
ここからは現代システムがどのようなものか再確認してみよう。
身の回りの物や生活を見渡すと、全てに金と情報の小さなシステムが入り込んでいる。
まず例として、朝のコーヒーについて考えてみよう。
コーヒー豆は日本ではほぼ生産できない。コーヒー豆は、南米やアフリカから船や飛行機で届けられる。検疫や関税などのややこしいルールを越え、様々な中間業者の手を抜け、消費者の手に届く。
コーヒー豆を買うために支払った金は、会社で労働生産することで手に入れたものだ。給料は銀行に振り込まれ、その一部をオンラインバンクに入れる。Amazonや楽天でほしいコーヒー豆を探し、Googleで口コミを検索する。評判は上々なので、クレジットカード決済でコーヒー豆を購入し、数日後に自宅に配達される。早速、蛇口をひねり水をケトルに入れ、IHで水を沸騰させ、コーヒーを淹れる。
このコーヒーを淹れることだけでも、膨大なシステムが重層的に携わっている。
現代人はこの一連の流れの中で、システムがどのような行程で動いているか、ほとんど理解できていない。
オンライン決済やIHの原理はわからない。関税がどのように決められているか、飛行機がなぜ飛べるのかもわからない。コーヒー豆を作る作業もさっぱりわからないし、コーヒー豆の造り手の名前さえ知らない。これは逆も然りで、コーヒー豆の造り手は、遠い異国の地で自分の作ったコーヒー豆がどのように消費されているか知らないのだ。
資本主義により自動化されたシステムは、さまざまなシステムと複雑に絡み合い、我々の行動が制御されている。
なぜシステムがよくわからなくなったのか?
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現代人の息苦しさは、このシステムがもはや認知不可能なくらい複雑巨大化し、何かわからないものにより行動が制御されているような不安感があるからだと思う。
それをわかりやすくするために、マルクス・ガブリエルに登場してもらおう。
以下に「マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する」を引用する。
聖なるコスモスのようなわかりやすいシステムが崩壊し、戦後の個人主義や実存主義により与えられた自由は、構造主義やポストモダン、そして新自由主義によりますます複雑多様化していった。
戦前の全体主義の反省から、個人や民族の解放が始まった。ここには冷戦構造、マルクス主義+精神分析の影響が強い。
さらに実存主義により、宗教や国家や歴史といった大きな物語から個人を引き離すことに成功した。
しかし構造主義やポストモダンにより、人間の信じてきた存在や感覚が非常に適当なものだということが判明してきた。人が自分で考えたと思っていたことが、実は目に見えない構造で決められていたり、言語や感覚の差異でしかないなど、今までの定説が根本から否定される発見が相次いだ。
結局、戦後の哲学や科学が導いたベターな答えは、「全ては存在せず、ただ投影されたイメージでしか無い」ということであった。
こうして人は社会を理解することはできなくなった。信じるものは何もなく、だがその世界で我々は生きていかなければならない。
良くいえばこれは人類が切望してきた自由であった。
だが、まるで立脚点のない世界は、個人にとって新たな不安を生んだ。
1980年代に折しも始まった新自由主義はこの「何もわからない/何も現実なものはない/全ては夢のようなもの」というポストモダン的な思考を逆手に取った。
もし本当に社会領域が実際のイメージの投影を中心として組織されるのであれば、その投影のメカニズムを自分のものとし、それに繋がっている人にものを売るためにそれを利用することができる。
コミュニティにおけるセルフイメージの構築をコントロールすることができれば、階級闘争を支配し、統制できる。
こうして新自由主義(ネオリベラリズム)は、マルクス主義と精神分析学を理論を逆手に取り、巨大広告産業に変えてしまった。
なぜなら、広告産業というのは、イメージとセルフイメージの投影に過ぎないのだから
こうして人々は、広告産業や文化産業(映画など)によって作られたイメージ=幻想の産物により、セルフイメージを操作するよう促される。
東京を歩けば、どこもかしこも隙間なく広告だらけだ。「ブレードランナー」の東京っぽい描写こそ、ネオリベラリズム的社会の投影だといえる。
美味そうな料理の広告があれば、RIZAPの広告に痩せろといわれ、ローンを組んで家やマンション(しかもより良く新しい)を買え!保険に入れ!介護はどうする?子供の進学は大丈夫か?安全装備の車に乗り換えろ・・・と、イメージの押しつけが刺激的に乱発されている。
ここにヘーゲルやラカンがいうような、「承認欲求」が現れる。
人間は自分のことがわからない。自分が何者で、どんな存在意味があるのか、さっぱりわからない。
かつては、聖なるコスモスや宗教や国家が「生きる意味」を与えてくれた。だがもうそれは消え去ったのだ。
よって人間は他者を鏡として自分を見つめる。これがイメージの投影だ。
他者から返されたイメージから、自らのセルフイメージを構築する。
しかし、このセルフイメージは外部に依存する。
システムは資本主義と相性の良いこの承認欲求を取り込むことに成功した。
システムが促すセルフイメージ承認欲求
反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか
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「反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか」は、この作られたセルフイメージを詳細かつ大胆に語っている。
反逆=カウンターカルチャーとは、ヒッピーのようなイメージだ。
反システム的ライフスタイルだといって良い。だがこれは、反システムという名の消費であり、反システムという商品を買うシステムに組み込まれているだけだ。
例えば、今やどこを見渡してもSUVが走っている。
本来、SUVはアウトドア的な使い方をするための作業車であった。
タウンユースでは不要なスペックを持ち、燃費も悪く値段も高い。だが大人気だ。
これは「現代社会に埋没しないアウトローなイメージ」という広告により流行している。
SUVに乗るだけで、実際は登山やキャンプをしなくとも、そういったイメージが手に入る。SUVに乗り町に出るだけで、主流的イメージの庶民に対して、優越感に浸ることができる。
反逆の神話とは、革命家でもないのにゲバラのTシャツを着たり、エコロジーのために高い卵を買ったり、山に登りもしないのにハイスペックな登山服を買う・・・そんな反システム的行動はすべてシステム内のセルフイメージによって誘導されていることを指している。
流行とは、結局消費の流れを変えることであり、広告によって人々を操作している。
僕は登山が好きだが、昨今は何の媒体を見ても「荷物の軽量化」ばかり取り上げられている。
同じような有名人や先行者が、同じような座談会をしては、旧態然の登山スタイルを否定する。
「新・冒険論 」では、これをジャンル化といっている。ある程度その行動が成熟すると小さなコスモスが生まれ、そこからジャンル化してしまう。明治時代に生まれた登山が金持ちの道楽から大衆化へ向かい、細かなルールが制定され、先行者が長老となって幅を利かせる。
さらにジャンル化が進み、ジャンルが分かれていく。登山がクライミングやトレイルランニングに分かれたように。
このジャンル化は、広告と相性が良い。
昨今の登山ブームで一通り装備が揃った頃に、今度は「軽量化装備」がブームとなる。
たった100g軽くなるだけで、数万円も値段が違う。広告により有名人となった広告媒体人が、「まだ重い装備で消耗しているの?」と嘲笑することで、人々はより軽く珍しいアイテムを消費していく。
数万円かけて軽量化するより、体重を減らしたほうが良いと思うのだが、世の中そうでもないらしい。
ちょっと登山の例はわかりにくいかもしれないが、如何に人間がセルフイメージを作り上げることにご熱心であり、広告産業によるイメージの投影に操作されているかお分かりいただけたろうか?
個人的に消費は悪ではないと思っている。だが、セルフイメージを作り上げることに熱中するあまり、安易なイメージの投影に飛びついていると、永遠に終わらない承認欲求の闘争という地獄に陥ってしまう。
これこそ、現代人を苦しめる終わりなき承認欲求闘争だ。
現代システムの最先端技術「SNS」
ポストモダニズムは、冷戦終結後、自由民主主義こそが理想を実現すると喧伝した。
ポストモダニズムは、永遠の平和を約束したのだ。
しかし、そこには空虚で何もない更地が広がっていた。
人々はそこでアイデンティティを形成しなくてはならない。なぜなら先述したように人間は自分が何者なのかわからないからだ。
広告や消費によるセルフイメージの創出というのは、非常にわかりやすい世界ではないだろうか?
そして現代最強のセルフイメージ創出ツールは、SNSである。
ポストモダニズムによりもたらされた平和は、承認欲求を巡る戦場になった。
世界は夢であり、無であり、意味がないからだ。冷戦は終わり、人々は医療技術の進歩により死ななくなった。
マイノリティの権利も尊重され始め、もはや多様性が極まり、すべてが扁平化した無の世界になった。
だが、SNSはそこに新たな承認欲求の場を提供した。
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TwitterやInstagramにFacebookといったSNS。
さらにGoogleやAmazon、Appleは、この無の世界でセルフイメージの創出を格安で手っ取り早く与えてくれる。
しかも世界共通のプラットフォームでだ。
Apple製品でスタバでドヤ顔すればカッコいい。それをSNSにアップロードすれば、さらに承認欲求は満たされる。
GoogleやAmazonは考えなくても、自分にあった情報や商品を教えてくれる。セルフイメージの自動化だ。
GAFAは、こうした人間の承認欲求を満たす代わりに、膨大なデータを収集している。
ポストモダニズムにより破壊された世界を再構築するためだ。
全てが無になった世界をAIやビックデータにより、大航海時代の新大陸へと変貌させる。
今やGAFA無しでは我々の生活は成り立たない。セルフイメージの創出という厄介な問題をカネさえ払えば自動でやってくれるからだ。
データを収集し、最適解を与えることで、人々が効率的かつ無駄なくアイデンティティを保つことができるようにした。
しかし結局それは、ポストモダニズムのような世界の肯定でしか無い。
GAFAが作る世界は、承認欲求をさらに細分化し、新たなシステムを量産する。人々は多様化複雑化し続け、GAFAにますます頼らないと生きていけなくなる。
GAFAは膨大なデータから個人をラベリングし、承認欲求を満たす商品を与え、そしてまた違うセルフイメージの場を創設する。
GAFAにセルフイメージの場を支配されると、もはやイメージを提供する側も取り込まれてしまう。
ポストモダニズム的世界は、すべてが無であり、現実ではないので、無限に増殖可能だ。流行は超短期的となり、セルフイメージの場は安定しない。
結局、人々は操作された情報の海に溺れ、必死に自分を見出そうと何かを掴もうと藻掻き苦しむ。だがその掴んだ何かも、結局はすぐに溶けて消え去ってしまう。
現代社会の生き辛さは、こうした不安定な自己を生むシステムライクな社会なのだ。
そしてこのポストモダニズムを最も理解している男がいる。
そう、ドナルド・トランプだ。
まとめと結論
①システムは、本来人間が安全を求めるために生まれた
・・・のだが、もはや現代はシステムのために人間が存在する状況になっている。
②システムが巨大化するのは資本主義原理と共生しているため
システムが自己増殖するのは、資本主義の原理が土台にあるのが原因だ。
これは資本主義の思想である『投資がさらなる富を生む』を含んでいるからだ。
未来はより良くなるという前提は、人類の潜在意識にまで刷り込まれ、システムをより拡大し、複雑にすることを可能にしている。
グローバル経済が典型で、市場を大きく広げることでより富を生み、それが善であるとされている。そのために各地で紛争や文化の荒廃が起きようとも、豊かになることは善いことなのだ。
GAFAのように無料や格安でプラットフォームを独占的に世界に広げ、そしてその裏でデータ収集しようがそれもあくまで善なのだ。
③人間の承認欲求を組み込み、システムが人間を支配する
システムの発展により、副次的に個人の自由がもたらされた。
これは個人が自由になることが、システムによって都合が良いからだ。聖なるコスモスや習俗から個人が自由になることで、労働者や消費を生み出し、システムの拡大に利用できる。
しかしシステムは、全てを破壊しニヒリズムの世界をも作り上げた。
これにより、自由な人間は、自分の存在価値すら見いだせなくなった。現代の承認欲求の肥大はここに原因があり、システムは承認欲求を操作することで人間を支配している。
こう見ると、システムは資本主義の合理性を突き詰めているように思える。
資本主義は資本を増やすことが目的であり、その時代の経済力に合わせて合理性に歴史を操作している。
システムの抑圧的な合理化により、現代人は脳までも変化させられている。
もちろんシステムの中で生きることに苦を感じない人も大勢いる。
だが僕を含め、何やらよくわからないが巨大な抵抗できない力により、自分の思考や行動が制御されている「気持ち悪さ」を感じている人間は多いだろう。
しかしシステムは、こういった反システム的な思考すら、広告や消費によりセルフイメージの創出を操作することで、システムの原動力に変えている。
結論として、「なぜ現代の豊かな社会でも生きづらいのか?」の答えは、システムにより個人が自らの存在意味を自らの意思で認めることができなくなっているからだと思うのだ。
システムの抑圧的な合理性により、社会は自由という名の操作的な秩序に支配されている。
そこはかつて安全を求めて集った人類のように、素朴な親しみを込めて暮らせる場所ではなくなった。
システムにより操作された社会で、意識高くシステム内で戦うものもいれば、システム外へ逃げようと苦しむものもいる。
現代人の最大の不幸は、このシステムの外に出ることがもはや不可能だということだ。
完全なる逃避はできず、大抵の人間はシステムとうまく付き合うように努力している。
だがその努力すら気休めであり、セルフイメージの創出の一環なのだ。
現代は「マトリックス」の世界に追いついてきた。システム内は安全で便利だが、主体性は無い。
自らの意思で生きるということは、システムと反発することになる。システム外で生きようとしても、それ自体がシステムの操作によるものかもしれないのだ。
では、我々はどうすればよいのか?
長くなったので、システムに対してどう生きればよいのかを次回考えてみたい。
【追記】
nounai-backpacker.hatenablog.jp
システムでの生き方について考察しました。