脳内バックパッカー

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意識低い会社で優秀な人材がやめていくのは「ただ待つしか無い」ことを悟るから

ド田舎の意識低い会社に勤めているのだけれども、数少ない優秀な人材が消耗しきって辞めていくのを何度も見た。

そこには意識高い会社ならありえない悲劇があった。

 

 

 

 

意識低い会社は経営者が何も知らない

意識低い会社の最大の問題は、経営者が現場の事を全く知らない。

というか、何も知らない。

最低限の組織的な何かすら成り立っておらず、ワンマン経営者の周りには「おべっか使い」か「ただ長年勤めてきたというだけの老害」しかおらず、経営者も彼らの言葉しか信用していない。

なぜ経営者がそんな事をするのかというと、責任を取りたくないからだ。

経営者のくせに責任を取らないというのが意味不明かもしれないが、意識低い会社の経営者とは親から何となく引き継いだだけの坊っちゃん社長が多く、かつ昭和的なぬるま湯経営(地元の繋がりや政治家との付き合い)でなんとかやってこれたという成功体験が社のアイデンティティにまでなっているので、最近の複雑怪奇な社会情勢の変化についていけるわけもなく、かといって新しい何かを始める勇気もなく、ただただ見ざる聞かざる喋りなさる、そして責任取らざるという老害経営になってしまう。

 

 

中間管理職に降りかかる絶大な責任

そんな経営者と取り巻きに支配された会社がなぜ経営できているかというと、中間管理職の数少ない優秀な人材が縁の下のコンクリート製大黒柱として傾きかけた会社を支えているからだ。

無能な経営者たちには、非生産的な根回しやわかりやすい計算ドリルを作成し、涙ぐましい努力で軌道修正するように推し量っている。

成功すれば経営者や取り巻きの手柄になり、失敗すれば責任は全て自らに降りかかる。

部下たちは、経営者が全く使えないことはわかっているけれども、かといって経営者に文句を言いに行く勇気もないので、中間管理職にわけのわからない要求を繰り返す。

これがすべて個人に降りかかる。

 

真っ当な組織であれば、この過剰な責任を部署や幹部クラスが社内政治力を駆使してなすりつけあっているが、意識低い会社では個人に思いっきり降りかかる。

経営者は「わしはわからん」を繰り返し、取り巻きは責任をゴリ押しして逃げ切ったからこそ出世したので話にならず、部下は何が起きているのか理解できていない。

こうして意識低い会社では、太平洋上のプラスチックゴミが流れ着くゴミ島のように、「責任」が個人に集まっていくのである。

 

 

 

どうすれば意識高い会社になれるのか?

それは無理である。

強いて言えば経営者と取り巻きの寿命が完遂し、皆一掃されるまでひたすら待つのみ。

本当にこれしか無い。

こうして優秀な人材は、「ただ待つしか無い」ことを悟り、職場を去っていく。

改革の余地はなく、無能な経営者の鶴の一声で長い時間かけたプロジェクトは泡のように弾け飛ぶ。パチン。

だが会社はなんとか続く。意識低い会社が今まで生き残ってこれたのには理由がある。

それは競争が終わった(そもそも終わっている)からだ。

特にド田舎では、後継ぎがいなくて自主廃業する企業は多々あり、もともと競争が少ない地域である程度の社員を抱え、ある程度の箱がある企業は必然的に生き残った。

地元政治家や地元の有力者へのコネがあり、あとは立地と、超大手が気づきもせず通り過ぎるような経済規模、そんな偶然だけで生き残ったのが意識低い会社である。

 

 

それでも意識高い会社になるには?

意識が高ければすべて良いとは思わないが、まだ向上や改革の余地がある分だけマシであろう。

ここでは経営者が落雷により脳みそのネジが締まった、もしくは優秀な人材が催眠術により経営者を意のままに操れる特異能力者としよう。

 

①経営者がビジョンを表明し、全社員に共有すること。

②現在の業務のすべてを洗い出し、それを把握し、無駄を省く。

③浮いた余力(②の作業で)を利用し、優秀な人材で改革チームを作る

④改革チームで情報を共有し、逐一修正を加えながら組織作りをしていく

 

これ当たり前だと思うだろうが、こんな簡単なことすら回せていない。

特に意識低い会社に欠けているのは、①である。

経営者がビジョンや目標を設定できないのは、②がわからないからである。

②がわからないのは、ルーチンワークだけでも忙しすぎて余力がなく、他部署や上下のコミュニケーションができないからだ。

③④ができないのは、経営者に勇気がないからだ。

 

 

 

まとめ「ただ待つしか無いという地獄」

意識低い会社で優秀な人材が辞めていくのは、「ただ待つしか無い」ことを優秀だからこそすぐに悟り、自らの能力とは関係のない「時間」に身を委ねるだけしか選択肢がないことをまた悟り、バカバカしくなって辞めていく。

経営者は取り巻きにチヤホヤされるだけで満足し、取り巻きは取り巻きするだけで金がもらえるので安心し、平社員はそうやって消耗していった優秀な人材を見ていたからこそ労働意欲が低下し出世を拒否し「ただ待つだけで良い」とコペルニクス的転回で何もしない。

こうして終わらない日常が繰り返される。

 

日本の生産性が低いのは、この「ただ待つしか無い」という結局受身的な働き方しかできない環境が多いからではないだろうか?

そこに主体性はなく、自分の能力を発揮することもできず、時間を金に変えるだけが仕事になってしまっている。

希望も展望もなく、「そういうものだ」と先輩に言われ、情熱は失われ、1日の内の大半を無為に過ごし、それが何十年も続くのかと思いに耽る。

 

逆に言えば、尖ったことを行わずに取り巻きに上がれるようコミュニケーション技術を上げていけば、これほど楽な環境はない。

「ただ待つしか無い」環境は、コミュニケーション能力があればよく、実際の仕事を行う上での能力は評価されにくい。

少しでも優秀な人材は、この能力よりもコミュニケーションやコネだけが評価される世界は耐えられない。

 

 

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『平成狸合戦ぽんぽこ』は戦後左翼運動群像劇・・・と勘繰って観ると面白い

平成狸合戦ぽんぽこ [DVD]

久しぶりに『平成狸合戦ぽんぽこ』を鑑賞した。

もう十回以上鑑賞しているが、歳を重ねるごとに捉え方が変わってくる稀有な映画でもある。

そんな「ぽんぽこ」を戦後左翼運動群像劇と勘繰って観ると面白いという話。

 

 

 

敗北した左翼運動群像劇

高畑勲監督といえば、東大卒のバリバリ共産主義者として名高い。

宮崎駿と出会ったのも東映動画労組とのこと。

ぽんぽこのストーリーは、そんな経歴を踏まえると「敗北した左翼運動群像劇」として勘繰って眺めることができる。

多摩ニュータウン開発計画=日米安全保障条約としてみたり、三里塚闘争や現在の沖縄基地問題として見ることもできる。

というか、昭和の社会運動全体として見たほうが良いかもしれない。

 

多摩の大自然で平和に暮らしていた狸たちが、人間の勝手な理由で住処を破壊される。

人間からすれば、都心部の過剰人口に対する住居問題や資本主義経済的な諸々の理由で行った「開発」であるが、当の狸からすれば「破壊」でしかない。

狸には憲法も法律もないが、この自然破壊は自らの種の保存にまで危険が及ぶ暴力行為であり、それが近代国家の権力として表されている。

たしかに今でも、格差がこれほど広がっているのにもかかわらず、消費税増税を「偉い人達のご都合主義」で実施されようとしている。

「人間=偉い人達」であり、「狸=庶民」と思えばわかりやすい。利権談合共産主義ともいわれる日本だが、昨今の情勢は財界や政治力の強い団体などの巨大な力のみで政治が動かされているように思う。

少子高齢化や就職氷河期世代などの問題をみると、気づいたときには森が切り開かれ、少ない食料を奪い合う羽目になっていた狸の姿が思い起こされる。

 

 

しかし狸は狸でこの難題に対して一致団結せねばならぬのに、組織はイデオロギーや主導権争いで分裂していく。

暴力的なテロ行為に走る権太、穏健派だが計画性に欠ける和尚、人間を甘く見ている四国の狸達、慎重すぎて日和見主義的な正吉・・・のように狸たちの抵抗運動は分裂し弱まっていく。

こちらも左翼運動の内ゲバによる自滅を物語っているように思う。

権太は連合赤軍っぽいしね。

 

妖怪大作戦こそ成功するも、それをうまくマネジメントできず、人間に良いように扱われてしまう。四国の狸たちの驕り=前衛党、化け学への盲信=マルクス主義、そしてマスメディアを利用した作戦が結果的に裏切られてしまうのも戦後左翼運動らしい姿だ。

狸たちは、(人間の)大衆を見誤った。化け学や妖怪大作戦をすれば、大衆はすぐに狸側につくだろうという過信だ。

狸たちは、敵である権力側の人間と仲間内のイデオロギー闘争しか考えておらず、大衆のリサーチや評価が全くできていない。

しかし社会運動とは、大衆を味方につけなければ決して成功しない。カストロのキューバ革命がたった10人程度の兵士から始められたにもかかわらず成功したのは、大衆の支持を得たからだ。そしてゲバラがボリビアで死んだのは、大衆の支持が得られなかったからである。

日本の戦後左翼運動の決定的な敗北要因は、左翼運動自体がエリート主義と内ゲバに終始したため、大衆の支持を得られなかったからだ。

 

結局、狸の運動は尻すぼみし、完全な敗北に終わった。

ここで重要なのが、変化できない狸たちだ。変化できない仲間を見殺しにしてなんとか生き残った狐のように、狸たちも決断が迫られる。

太三朗禿狸は、変化できない狸を集めて踊念仏の教祖となり、最期はそのまま信者となった狸たちを連ねて宝船に変化し、彼らと共に入水自殺を遂げた。

この描写は、子供の頃にはわからなかったが、時代に乗り遅れた狸たちの集団自殺の場面なのだ。

カルト宗教のようにも見えるが、「時代に取り残される人々は必ず存在していること」として捉えたほうが良いかもしれない。

まさに多摩の狸の存在危機にもかかわらず、変化できない狸たちは楽しそうに踊りながら死んでいく。社会的な死を受け入れて享楽的に生きる人々、社会に取り込まれて苦しむ人を見てあざ笑う世捨て人、そのような『広義な死』があの宝船の描写であると思う。

 

 

最終的に、変化できる狸は社会へ順応し人間として生きる道を選ぶ。

これは左翼運動を途中で逃げ出した人ではなく、左翼運動をしていたにもかかわらず体制側に付いた人を表していると思う。学生運動というブームが去ると、平然とまるで狸が化けるように敵側へ靡いていく人たち、これこそが人間社会で暮らす狸だ。

この二面性こそ、ジョージ・オーウェルの「一九八四年」の世界だ。狸が敵であった人間に化け、人間の社会で暮らしている。社会とは、そんな化かし合いで成り立っているのだ。

「姿を消した」と思われていた変化できない狸たちは、それでも狸らしさを忘れずに生きていた。変わり果てた自然の代名詞であるゴルフ場で、狸たちは以前のように踊っている。

この素朴な存在こそが、真の運動家であった・・・という敗北宣言。この残虐なエンディングは、昭和の左翼運動群像劇の姿である。

・・・というブラックユーモアかもしれない。

 

印象的なのは、最後に残された狸たちが力を結集して、故郷の懐かしい景色を再現する場面。

「あの頃は良かったなあ~」という郷愁に浸るのも束の間、団地のベランダに現れた人間の子供を見て現実に戻る狸たち。

人間の子供は「餌をあげたかった」と言う。本来、自然の中で自ら食料を得ていた狸だが、現代っ子からは餌を与える対象としか写っていなかった。

左翼運動は、「単なるノスタルジー」と「自活できない存在」として社会に認識されていた。

それが平成であった。

果たして令和はどうなるかな?

 

 

 

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以上のように勘繰って観ると、新しい面白さが滲む名作。

ブラックユーモアと見るか、ディストピアと見るか、それとも?

 

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