「パラサイト」格差社会の本質と民主主義の欺瞞

パラサイト 半地下の家族(字幕版)

やっと見たよ『パラサイト 半地下の家族

韓国映画らしい人間のドス黒いところをにしりつけるように刻印した濃厚ドラマ。

この映画は公開時からいわれているように、「格差社会」がテーマとなっている。

だが、単なる格差社会ドラマでもなく、ドキュメンタリーでもなく、オマージュでも皮肉でもない。

これは格差社会をフィルターにした「民主主義の欺瞞」を表現した映画なのだ。

そこのところを解説してみよう。

 

高低差とニオイ

まず金持ち夫婦の大豪邸と半地下の極貧賃貸物件の対比。

また高台の高級住宅地とスラム的な貧困街。

高低差をとことん表したシーンがこれでもかと出てくる。

階段の上り下り、長い坂、立ちションする親父をしたから眺める構図、同じソウルが舞台なのに全く景色が違うのだ。

高低差の景色ではない。目の位置が違うだけで、ニオイが違うのだ。

パラサイトで一番描写されているのは『ニオイ』だ。あえてのカタカナ。

高いところは空気が澄んでおり、低いところには便所のニオイが溜まっている。

このニオイは、半地下家族がいくら取り繕うと消すことは出来なかった。

バカにしていた金持ち家族の子どもにすら見破られるニオイ、このニオイの描写は糞便や便所コオロギが見事に視覚化してくれている。

ニオイというパーソナルな象徴は、格差社会の対比であり、もっとエグい部分を料理するための最適な材料なのだ。

 

終盤の洪水のシーン、高台から流れ出た水は汚水をかき集めて貧民街へと流れ行く。

高台の人間はこの「結果」を想像すらしていないだろう。

同じ「大雨」によって、かたや温かい食べ物を食べてくつろぎ、かたや糞便にまみれてなけなしの財産を担いで蠢く。

この高低差はニオイを固定化し、それは格差の拭いきれない本質なのだ。

 

格差と民主主義

民主主義は「人間皆平等」が土台にある。

投票権は平等であり、自由が保証されている。

そうだろうか?

昨今のトランプ現象、黒人差別、EU離脱、日本のコロナ騒動・・・本当に我々は自由で平等なのだろうか?

民主主義とは、結局のところ上級国民が優雅に暮らすためのハリボテなのではないか、そんな疑念が大衆に蔓延している。それが昨今の政治問題だ。

コロナ騒動では、日本という国がどのように運営されているかがわかりやすいカタチで暴露された。

要するに、後生大事に「自由と平等」を信じていたのが馬鹿らしくなったのだ。

この「馬鹿らしさ」をこれでもかと演出したのがポン・ジュノ。

 

金持ち家族は洗練されていて、落ち着きがあって、いつも綺麗。

金があれば感情は抑えられるという描写があるが、まさにあの落ち着きとは余裕なのだ。

で、何が余裕なのかというと経済的に豊かということだけではなく、『自分たちは裕福だ』という階級意識である。

この階級意識を表立って出すことはタブーである。

金持ち家族は当たり前にそれを自認しており、だからこそ「自由と平等」を原則とした態度なのだ。

だが、半地下家族はパラサイトしつつ、少しずつこの「違い」を明確に意識させられる態度を見てしまう。

半地下家族は、この金持ち家族をバカにしていた。金持ちは単細胞でシンプルだと。

しかし、そんな金持ち家族はシンプルに貧困層を見下している。

差別や嫌悪や嫌味ではなく、シンプルに動物的に見下しているのだ。

 

この「自由と平等」を体現しているような金持ち家族の反射的な差別意識、無意識で悪意のない差別意識、これが半地下家族の人間としての尊厳をチクチクと刺してくるのだ。

「自由と平等」の民主主義は、結局のところ上級国民が優雅に暮らすための原料であり搾取構造の根幹なのだ。

一部の富裕層が、大多数の貧困層の上で安らかに余裕ある暮らしをしている。貧困層はそれでも、「自由と平等」の民主主義を小馬鹿にしながらも認めている。

そんな疑念を、半地下家族、特に父親ギテクは感じ取っていた。

 

 

半地下家族と地下住人

とある一件で、半地下家族は地下にさらなる「貧」があることを知る。

自分たちが追いやった元家政婦の夫グンセが、地下でひっそりと暮らしていたのだ。

それは半地下家族が苦しんでいた貧困の、格差社会のさらに深い闇であった。

そして半地下家族が今の生活を手にするために追いやった存在でもあった。

格差社会とは競争なのだ。誰かが上に上がれば、誰かが落ちる。

半地下家族は、自分たちが恨んでいた格差社会の構造に自分たちが喜んで手を貸していたことに気づくのであった。

長男ギウはパラサイト計画の発端である自分に責任を感じ、地下の住人グンセを殺害することを決意する。

なぜか?それは「逃げ」なのだ。

パラサイト計画はそもそも格差社会へのアンチテーゼ、反乱であった。

だから彼らはロビンフッドだったのだ。馬鹿な金持ちを騙して「本来自分たちが享受しても良かった権利」を奪う。

しかし、この大義名分は地下の住人の存在によって瓦解した。

半地下よりもっと下層の世界がそこにあり、半地下家族はそれを「知らない」ふりをしていたのだ。

彼らは格差社会の見事な構成員だったのだ。

 

映画史に残る同情

最後の金持ちパーティーシーン。

半地下家族は、パラサイト生活によって身に余るほど感じた「差別意識」に苦しんでいた。

金持ちたちは、自分達の存在すら完全に否定していたからだ。それも悪意なく。せめて悪意があってほしかったのだろうか?

地下の住人グンセは、結果的に妻(元家政婦)を殺した半地下家族に復讐するためにナイフを手にし襲いかかる。

長男ギウは頭を石で殴られ、長女ギジョンは胸を刺され、妻チュンスクが取っ組み合いとなる。

グンセの怒りは、半地下家族に向けられたのだ。

それは妻の復讐であり、同類であるはずの自分たちへの扱い=存在しない存在化。

存在しない存在化こそ、格差社会の本質なのだから。

 

父親ギテクはこの修羅場の中で、本当の格差社会を知る。

金持ち家族は、家政婦や家庭教師がどうなろうと知ったこっちゃない。

誰一人助けようとせず、我先に逃げたのだ。

妻チュンスクは辛うじてグンセを刺殺した。

金持ち家族の父親ドンイクは、グンセに近づくと反射的に鼻をつまんだ。

地下の住人のニオイに耐えられなかったのだ。

その姿を見た半地下家族の父親ギテクは、反射的にドンイクをナイフで刺し殺す。

 

なぜか?

グンセは子どもたちに危害を加え、妻を殺そうとしていた。

にもかかわらず、ギテクは彼に同情したのだ。

こんなことあるか?

個人的感情より、ギテクは格差社会の恨みを取ったのだ。

積み重なった差別意識による自尊心の破壊、それが同情と交わり、凶行に及んだ。

自分の家族を傷つけた男に同情して。

 

 

まとめ「差別とは」

世界を賑わす差別問題の本質がここにあるのだ。

金持ちたちは如何にも差別などないように振る舞っている。

金持ちは「自分たちは皆と同じ人間だ」という顔で優雅に暮らしている。

だがそれこそ彼ら彼女らが行っている差別なのだ。

だから格差社会問題、人種問題は簡単に解決しない。

下のものがいるから上のものがいる。

まず0があり+と-はあるのだ。確かにあるのだ。

それを認めないのが民主主義だ。しかし、その民主主義を大きな嘘で塗り固められている。

その嘘に世界は怒っているのだ。

ニオイだ。

ニオイを明確に感じ取ったような顔、顔、顔、世界はそれに怒っているのだ。

だがそれは民主主義=資本主義から搾り取った甘い蜜を享受している上級国民は気づかない。

なぜなら彼らは民主主義=資本主義のおかげで豊かなのだから。

そして現在の社会構造の上部と下部を分ける最大の原因がまさにそこにあるのだから。

パラサイトが抉り出したのは、社会の構造の最暗部にあるニオイ立つ腫瘍。

腫瘍は集団=文明社会の歪の象徴であり、人間を不平等にしている原因であり、そしてそうでもしなければまとまることができない人間という生き物そのものである。

 

 

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でも地下の住人の夫婦が北朝鮮をパロってるところが、この映画最強のブラックジョークなんだけどね。