コロナウイルスであぶり出されたもの

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コロナウイルスの大騒動により、我々は空前絶後の不安に襲われている。

それは何か?

経済と政治への不信である。

これまで空気のごとくそこにあって当然であった経済と政治が、何だか存在感の重みを増している。

今回のコロナウイルスによりあぶり出されたものとは、そんな経済と政治=国家という体制そのものについて考えさせられる「不安」であり、その不安が不信へと変わるには十分すぎるほどの暇な時間も与えられた。

 

国家とはなにか?

一億人もの多様な人間が押し込められた箱である。

でもこの箱は秩序を求めている。

僕はこの秩序は安全を守るための必要悪だと思っていた。

決してアナーキストでも左寄りでも、そして右寄りでもないノンポリな僕であるが、国家とはそんなものという認識だった。

自然界において、道路を逆走してはいけない理由なんてそもそもないし、他人の家の冷蔵庫からビールを取ることだってもちろん問題ない行為だ。

なぜなら自然とは生存欲求のぶつかり合いなのだから。

蛇は食われるカエルの気持ちなど考えもしない。

 

しかしそんなことをしていると、これだけの人口密度の社会は成り立つわけがない。

見えざる手にもルールは必要なのだ。

このルールが国家だと思っていた。

これだけの人口密度がなければ、逆説的だが人類の繁栄はなかった。

今、僕が地球上でこれだけ(安全かつ衣食住に困ること無い)不自由なく暮らせているのは、国家というルールの監視システムがあるからだと。

 

でも、コロナウイルスはそんな国家が膨張しきってシステム破綻を起こしていたことを、風船に針を刺したように暴露した。

「和牛券」や「布マスク配布」のような合理的に考えても非合理的過ぎる行為の数々。

国家が国家を運営するための教育制度から選りすぐったエリート集団の決断がこれである。

この有事の際に、まさかこんなことを『言っても良い』と思ったことに僕が愕然とした。

結局、国家とは国家を運営する管理者を守るためのシステムであり、我々はその国家運営の肥やしでしか無いのでは・・・という被害妄想。

おそらく、誰もが心の中で自認していたその感覚が、ドカンと一発派手に打ち上がった。

国家という枠組みで生かしていただくために、本来好き勝手やっても良い人生という名の時間を生贄に捧げてきたのだ。

なのに、我々が上奉ってきた国家とは、こんなにも破綻していたなんて・・・

 

国家のために生きてきた。

国家が用意した法律を守り、国家が用意した教育制度に沿うように学び、国家のために労働し税を収めてきた。

しかし、国民は皆、これは仕方がないと思っていただろう。だからこそ、良い大学に入るために勉学に励み、赤信号では止まり、ルールを破れば牢獄に繋がれ、欲しくもない商品で身を飾り、命を危険にさらしてまで出勤している。

この国家という枠の中に適応した人間が、国家の用意したカースト制度の上位に君臨し、適応できなかった人間は下位に甘んじる、この適応レースに強制参加させられる人生を我々は仕方がないと思って生きている。

だが、このコロナウイルスという国家レベルで統制しないと国民の命が守れないようなレアケースが訪れた瞬間、今までの苦労がパチンと無益になった音がした。

 

国家がなければ生きていけないと思う僕でさえ、けっこう膝に来た。

では国家なんて欺瞞だと信じる人間が、自粛ムードから逸脱して自由を享受するのを見て何か言えるのだろうか?

そしてそんな人間を「自分も我慢しているのだから」と叩く人間に同情できるだろうか?

国家という枠組みが、コロナによって強化され、コロナによって破壊された。

国家は箱であり、鉄板の面もあれば、やぶれた穴もある、それがコロナ中、そして後の世界。

命の危険を感じ、より国家を信じたい人。

命の危険を感じ、より自身を信じたい人。

命の危険を感じでもなお、受け身で居続ける人。

もはやこの全てに1mmも優劣はつけられない。

 

これは世界的に見ても同じだろう。

コロナは国家という、経済という、民主主義というシステムの枠の最果てを『見せつけた』

そこから受ける情報をどう解釈するか。

それは今までの経験が通用しない、答えのない答えを求めなくてはいけないという答え。

命の危険を感じたことで、忘れかけていた生の有限性を知り、だからこそ自分の位置がどこにあるのかを探し出し、そんな中で環境を疑い出す。

答えがないからこそ、何かにすがり不安感を沈めたい、それがコロナ後の世界。

この不安感は、今生きている人間にしっかりと刻み込まれた。

例え、コロナ後に何もなかったように世界は回りはじめようが、第二次大戦前の灰色の空気に満たされようが、それともさらに合理的な社会が生まれようが、それとも原始に戻ろうが、それはきっと変わらないだろう。

 

 

ということで、コロナウイルスによる暴露がけっこうショックだった人は多いんじゃなかろうか?

僕はけっこうショックだった。日本が、というだけではなく、世界情勢を見ても「大丈夫なのか」という不安が生まれた。

そして市井の人々のマスク転売やパチンコ店行列、逆に真摯に自粛している人や自粛警察を見ても、それは変わらなかった。

強固だった足元の地盤が、急にぬかるんだ泥の上だという風に思えてならなくなったのだ。

だが結局、国家はそのまま有り続ける。もちろん、僕がどうこうしようというわけではない。今も普通に働いているし、今日自動車税の通知が来たから明日にでも払いに行くだろう、社会インフラだって使いまくっているし、夕方には郵便で本が届くだろう。

しかし3.11のような天災とも違うコロナウイルスによる暴露、これはけっこう根が深くなると思う。

なんせシステムとしか形容し得ない全てが、サブリミナル効果のように刹那的にだがガッツリ暴露されたのだから。

全てというのは、個人の思う全てだ。今まで見てこなかった隅々まで、イメージのような情報としてでも喰らわされたわけだ。

決してすべてが分かったわけではないし、わかるわけがない。だが、システムの肥大して今にも崩れそうな姿が、一瞬でも見えたような気がした。

ここで感じた個人個人のシステムの有り様が、マスクを買い占める人や黙って自粛している人などの行動に分けているのだと思う。

不安により見えた社会の一瞬のサブリミナル効果が、人々を行動に駆り立てる。

では何をすればよいのか?

そう思ったときに答えがわからない。

これが不安なのだろう。

この不安を利用したのが国家なのか、それとも国家によりこの不安が作り出されていたのか、もはや誰にもわからない。

 

 

nounai-backpacker.hatenablog.jp

 

AKIRAで人生変わっちゃうのはなぜか? AKIRAと中二病についての中二病的考察

nlab.itmedia.co.jp

AKIRA』がBLかどうかはさておき、AKIRAで人生変わっちゃうのはなぜかという話については大きく頷いたせいで臓物が出たかと思ったぜ。

これはAKIRAを観ることにより人生が変わっちゃうという、いわゆる『精神的健康優良不良少年(少女)化問題』であり、今回はAKIRAによりナンバーズにされた哀れな老若男女達のことについて論じてみようと思う。

 

 

 

『精神的健康優良不良少年(少女)化』とは

nounai-backpacker.hatenablog.jp

かくいう僕も『精神的健康優良不良少年(少女)化』されたナンバーズであり、しかも小学校低学年というAKIRA初体験(遭遇)のためかなり早熟であった。

「AKIRAを観る前と観た後の世界は、本質的にも実存的にも違う」と述べたのは仏哲学者ジャン・ポール・サルトルではなく僕であるが、多くのナンバーズがカプセルなしでも目が冴える思いで納得できるであろう。

では、『精神的健康優良不良少年(少女)化』とは何か?

それは、「リアル世界への確信的な疑念」である。

 

AKIRAを観た後、我々の知るリアル世界はもはや現実ではなく、そこには超主観的な虚の広大かつ荒廃したフロンティアが広がっている。

これはWHOの医学専門用語で『中二病』と呼ばれている原因不明の難病だ。

『中二病』は突如発症し、リアル世界で赤面するレベルの赤っ恥を感じることで治癒するとされる病気であり、発症平均年齢は10歳~15歳とされている。

AKIRAはこの中二病を発症する原因として、ネオナチやミヤコ教徒からは焚書扱いされている。

「世界への確信的な疑念」は、虚構の世界観を提示し、妄想のHDDとなる。不毛なリアル世界の自らの存在から逃れる聖域(アジール)に生きる強力な免罪符、それこそがAKIRAなのだ。

 

なぜAKIRAなのか?

では、なぜAKIRAなのかを3つの要点に絞って考察してみよう。

 

①絶望的な未来

AKIRAのディストピアでスチームパンクなネオ東京という舞台は、現実世界を何の疑念もなく生きている人間たちへの侮蔑であり、ある者にはメシア(救世主)となる。

第三次世界大戦後の復興中であるネオ東京は、欧米人の好きそうなオリエンタルスチームパンク都市であり、カオスの雑居ビルのようだ。

そこには希望のある未来都市ではなく、破壊と再生の先にあったのはまたしてもカオスであり、薄汚れた治安の悪さでネズミのように生きる未来人が描かれている。

技術的な進歩は垣間見られるが、現実社会で「教えられる/押し付けられる」明るい未来像はそこにはない。

バブルに浮かれた放映当時の日本でこれをやるってのかよ~

 

②超能力とドラッグ

鉄雄は突如として人外の超能力を手に入れる。

鉄雄は何の努力もなしに、ただ偶然にこの圧倒的な力=権力を手に入れる。

いや、気付かせられるのだ。鉄雄は先天的にAKIRAと近い特性を持ち合わせていた。

あのとんでもない力に、今まで一切気づいていなかったのだ。

この偶然性は、リアル世界において脱落を決め込んだ人間にとっては、まさに祝福なのだ。

なぜなら、押し付けられた社会の中のカーストで下位に属する自分が、異なる世界(AKIRAの力→押し付けられた社会の否定)ではカースト最上位に君臨していたのだから。

鉄雄は気付かされた力で、社会のルールを踏みにじるように破壊を繰り返す。

警察や軍人やインフラを圧倒的に屈服させ、最先端の科学技術を己の力だけで破壊する。

これは押し付けられた社会への復讐であり、まさに世界の破壊者であり創造者なのだ。

押し付けられた社会を突如として反転させるような力の存在を知ることで、リアル世界が未来永劫続くものではないという確信を得る。

この破壊により、世界の有限性を知ることができるのだ。現実世界は容易に、そして一瞬で反転する可能性があり、それは一秒後かもしれないのである。

 

そしてドラッグカルチャー。

ポパイのホウレン草のように、ドラッグの力で人間がいとも簡単に変わってしまう。

ドラッグによる人間のブースト効果は、観るものに「いわれのない伸びしろ」の存在を提供する。

超能力とドラッグ、この二点は今ある自らの存在を容易に変えることができるという革新的確信を得ることができる。

 

③エンディング

謎だらけのAKIRAだが、エンディングで真相が少し垣間見ることができる。

アキラくんや鉄雄の超能力は、『人間の進化』であり、人間が本来持っているエネルギーであり、そしてそれは世界の概念すら変えてしまうということだったのだ。

この「進化」による「革新」は、人類の文明の発展と同意であり、現代社会のパワーバランスの崩壊だけでなく、世界自体を変えてしまうくらいのポテンシャルがある。

まさに究極のリアル世界の否定なのだ。

自分たちが押し込まれているリアル世界は絶対的なものではなく、たやすく突発的に崩壊するかもしれない・・・し、自分がその破壊者であるかもしれない。

そう思うことで、現実世界の現実に占める領域は脆く崩れ、そして自分が世界の支配者になるのだ。

 

 

結論「AKIRAとは中二病の妄想世界の肯定」

以上の理由からみたとおり、AKIRAとは中二病の妄想世界を肯定するのだ。

・リアル世界の陳腐化

・破壊衝動の肯定

・自らのまだ見ぬ可能性の天井突破

このような妄想世界の武装強化に役立つツールを、AKIRAはリアルにありそうな未来像にヤバメの音楽を添えてSFをリアルに転化したのだ。

 

AKIRAを観た後の世界は、「空虚で脆くてすぐにでも崩壊しそうな世界」となり、「自分はこの世界を概念から破壊できる存在」かもしれないという自己肯定感を与えてくれる。

この心理の変化は、不毛なリアル世界の自らの存在から逃れる聖域(アジール)を生み、拡大し、なおかつよりリアルな世界に変化させる。

 

AKIRAは「現実世界への破壊的否定」と「自己への根拠不要な肯定」を与えてくれるからこそ、カルト的な人気があるのだ。

これこそが『精神的健康優良不良少年(少女)化』であり、世界中の中二病予備軍をナンバーズ化させた原因なのだ。

 

AKIRAによりナンバーズ化された我々は、突如として世界の崩壊が始まるのを「知っている」

 

その時、リアル世界はひっくり返り、すべてはAKIRAになる。

 

その時、ナンバーズは・・・

 

そう、AKIRAとは神なのだ。

 

 

 

「もう始まっているからね」

 

 

「でも、いつかは私たちにも・・・」