コロナウイルスであぶり出されたもの

f:id:tetsujin96:20200508121157j:plain

コロナウイルスの大騒動により、我々は空前絶後の不安に襲われている。

それは何か?

経済と政治への不信である。

これまで空気のごとくそこにあって当然であった経済と政治が、何だか存在感の重みを増している。

今回のコロナウイルスによりあぶり出されたものとは、そんな経済と政治=国家という体制そのものについて考えさせられる「不安」であり、その不安が不信へと変わるには十分すぎるほどの暇な時間も与えられた。

 

国家とはなにか?

一億人もの多様な人間が押し込められた箱である。

でもこの箱は秩序を求めている。

僕はこの秩序は安全を守るための必要悪だと思っていた。

決してアナーキストでも左寄りでも、そして右寄りでもないノンポリな僕であるが、国家とはそんなものという認識だった。

自然界において、道路を逆走してはいけない理由なんてそもそもないし、他人の家の冷蔵庫からビールを取ることだってもちろん問題ない行為だ。

なぜなら自然とは生存欲求のぶつかり合いなのだから。

蛇は食われるカエルの気持ちなど考えもしない。

 

しかしそんなことをしていると、これだけの人口密度の社会は成り立つわけがない。

見えざる手にもルールは必要なのだ。

このルールが国家だと思っていた。

これだけの人口密度がなければ、逆説的だが人類の繁栄はなかった。

今、僕が地球上でこれだけ(安全かつ衣食住に困ること無い)不自由なく暮らせているのは、国家というルールの監視システムがあるからだと。

 

でも、コロナウイルスはそんな国家が膨張しきってシステム破綻を起こしていたことを、風船に針を刺したように暴露した。

「和牛券」や「布マスク配布」のような合理的に考えても非合理的過ぎる行為の数々。

国家が国家を運営するための教育制度から選りすぐったエリート集団の決断がこれである。

この有事の際に、まさかこんなことを『言っても良い』と思ったことに僕が愕然とした。

結局、国家とは国家を運営する管理者を守るためのシステムであり、我々はその国家運営の肥やしでしか無いのでは・・・という被害妄想。

おそらく、誰もが心の中で自認していたその感覚が、ドカンと一発派手に打ち上がった。

国家という枠組みで生かしていただくために、本来好き勝手やっても良い人生という名の時間を生贄に捧げてきたのだ。

なのに、我々が上奉ってきた国家とは、こんなにも破綻していたなんて・・・

 

国家のために生きてきた。

国家が用意した法律を守り、国家が用意した教育制度に沿うように学び、国家のために労働し税を収めてきた。

しかし、国民は皆、これは仕方がないと思っていただろう。だからこそ、良い大学に入るために勉学に励み、赤信号では止まり、ルールを破れば牢獄に繋がれ、欲しくもない商品で身を飾り、命を危険にさらしてまで出勤している。

この国家という枠の中に適応した人間が、国家の用意したカースト制度の上位に君臨し、適応できなかった人間は下位に甘んじる、この適応レースに強制参加させられる人生を我々は仕方がないと思って生きている。

だが、このコロナウイルスという国家レベルで統制しないと国民の命が守れないようなレアケースが訪れた瞬間、今までの苦労がパチンと無益になった音がした。

 

国家がなければ生きていけないと思う僕でさえ、けっこう膝に来た。

では国家なんて欺瞞だと信じる人間が、自粛ムードから逸脱して自由を享受するのを見て何か言えるのだろうか?

そしてそんな人間を「自分も我慢しているのだから」と叩く人間に同情できるだろうか?

国家という枠組みが、コロナによって強化され、コロナによって破壊された。

国家は箱であり、鉄板の面もあれば、やぶれた穴もある、それがコロナ中、そして後の世界。

命の危険を感じ、より国家を信じたい人。

命の危険を感じ、より自身を信じたい人。

命の危険を感じでもなお、受け身で居続ける人。

もはやこの全てに1mmも優劣はつけられない。

 

これは世界的に見ても同じだろう。

コロナは国家という、経済という、民主主義というシステムの枠の最果てを『見せつけた』

そこから受ける情報をどう解釈するか。

それは今までの経験が通用しない、答えのない答えを求めなくてはいけないという答え。

命の危険を感じたことで、忘れかけていた生の有限性を知り、だからこそ自分の位置がどこにあるのかを探し出し、そんな中で環境を疑い出す。

答えがないからこそ、何かにすがり不安感を沈めたい、それがコロナ後の世界。

この不安感は、今生きている人間にしっかりと刻み込まれた。

例え、コロナ後に何もなかったように世界は回りはじめようが、第二次大戦前の灰色の空気に満たされようが、それともさらに合理的な社会が生まれようが、それとも原始に戻ろうが、それはきっと変わらないだろう。

 

 

ということで、コロナウイルスによる暴露がけっこうショックだった人は多いんじゃなかろうか?

僕はけっこうショックだった。日本が、というだけではなく、世界情勢を見ても「大丈夫なのか」という不安が生まれた。

そして市井の人々のマスク転売やパチンコ店行列、逆に真摯に自粛している人や自粛警察を見ても、それは変わらなかった。

強固だった足元の地盤が、急にぬかるんだ泥の上だという風に思えてならなくなったのだ。

だが結局、国家はそのまま有り続ける。もちろん、僕がどうこうしようというわけではない。今も普通に働いているし、今日自動車税の通知が来たから明日にでも払いに行くだろう、社会インフラだって使いまくっているし、夕方には郵便で本が届くだろう。

しかし3.11のような天災とも違うコロナウイルスによる暴露、これはけっこう根が深くなると思う。

なんせシステムとしか形容し得ない全てが、サブリミナル効果のように刹那的にだがガッツリ暴露されたのだから。

全てというのは、個人の思う全てだ。今まで見てこなかった隅々まで、イメージのような情報としてでも喰らわされたわけだ。

決してすべてが分かったわけではないし、わかるわけがない。だが、システムの肥大して今にも崩れそうな姿が、一瞬でも見えたような気がした。

ここで感じた個人個人のシステムの有り様が、マスクを買い占める人や黙って自粛している人などの行動に分けているのだと思う。

不安により見えた社会の一瞬のサブリミナル効果が、人々を行動に駆り立てる。

では何をすればよいのか?

そう思ったときに答えがわからない。

これが不安なのだろう。

この不安を利用したのが国家なのか、それとも国家によりこの不安が作り出されていたのか、もはや誰にもわからない。

 

 

nounai-backpacker.hatenablog.jp