「ビッグ・リボウスキ」のデゥードな生き方が実は幸せなんじゃないか説

ビッグ・リボウスキ (字幕版)

ビッグ・リボウスキ」という映画をご存知だろうか?

コーエン兄弟の傑作カルト・ムービーである。

自堕落なおっさんが悲喜交交なバカ騒動に巻き込まれていく話なのだが、現代において終始ダメなそのおっさんの生き方が実は幸せなんじゃないかと思ってきた。

そんなデゥードな生き方に学ぶ幸せについて。

 

 

 

 

デゥードなおっさんのスペック

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ヒッピー崩れの50代独身無職おっさん

若い頃はヒッピーでブイブイいわしていたが、今では家賃滞納しつつ、友人たちとボーリングに汗を流し、ホワイトルシアンとマリファナを好む。

だらしない格好、口癖は「ファ◯ク」、周りはおっさんだらけ、つかの間のお風呂でマリファナタイム、大好きなボーリング、親友はイカれたユダヤ人・・・

どう見てもいわゆる『負け組』な人生だが、何だか憧れる何かを持っている。

そこがデゥードな生き方の真髄だ。

 

おっさんは孤独に見えて全く孤独ではない。

イカれた友人たちに囲まれているが、ピンチには絶対助けてくれるマブダチ揃い。

質素な暮らしだが、自由にホワイトルシアンとマリファナを楽しむ。

とにかく貧乏だが、いつも親友(ほぼ独身)に囲まれ、毎日のように趣味のボーリング(大会参加中)をやり、毎日酒とマリファナと遅寝遅起。

 

世間一般でいう「幸せ」像とは程遠く見えるが、その生活スタイルに憧れるファンが世界中におり、公開当初は失敗作の烙印を押されていたにも関わらず、その後カルト的な人気を得るようになる。

 

 

 

『デゥードな生き方』現代の幸せ像は本当に幸せなのか?

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この映画を見てグサッと来るのは、現代の幸せの定義はそもそも本当に幸せだといえるのだろうか?という疑問がほとばしるほど湧くところにある。

このデゥードの生き方は、その作られた幸せ像を破壊する革命的なスタイルなのだ。

 

現代の幸せ像は、「妻や子供に囲まれ、一軒家を持ち、たまに家族旅行」なんていうステレオタイプはご健在だ。子供の頃からせっせと勉強して、大人になってもせっせと働くのは、この暗黙の幸せ像があるからだ。ここに虚栄心を満たす経済的な豊かさ、存在に気付かないくらいの万全な健康状態、社会での輝かしき地位、そして名誉・・・なんてのが続く。

逆に言うと、人々はこの既成事実化した虚像に縛り付けられ、その中で競争を強いられている。その競争の中には、資本主義の精神や政治の権力構造が組み込まれ、人々は少しでも良い生活を目指すために働き、消費し、そして疲労していく。

そんなヒッピー崩れのおっさんが言い訳に使いそうな精神が、この映画にはこれでもかと注入されている。

 

おっさんは殴られ、脅され、自宅のマットに小便され、最後には殺されかけても、何だかんだ助かる。それも大体は周囲の人間のおかげだ。周囲の人間のおかげでひどい目にあっているとも言えるのだが、おっさんは責めも逃げも隠れもせず漫然と受け入れる。

おっさんは言い訳しない。逃げて隠れて生きてきたおっさんだが、もはやすべてを受け入れているのだ。まさに禅の境地!

 

おっさんは踏んだり蹴ったりの逆わらしべ長者的悲運に見舞われるが、ラストシーンにはいつもと何も変わらない友人とのボーリング風景が映し出される。あれだけの災難があったにも関わらず、おっさんの生活は変わらないのだ。輪廻転生のような生活。

だがそこにはおっさんの意思がある。おっさんは、世に流される世間体に囲まれた生活ではない、自分で選択した毎日を送っている。それが端から見ればくだらない自堕落な生活でもだ。

 

おっさんの、デゥードの生き方のあの何とも言えない魅力とは、「束縛のない自由」であり、なおかつ一番大事なのはその結果を甘んじて受け入れている姿だと思う。束縛とは家庭や仕事だけではなく、世間体や他者の評価、見えない競争といった明確ではない「何か」まで含む。おっさんはその中で足掻き、そして今に至る。だがそこには敗残者でもやせ我慢でもない、自然体の姿がある。

おっさんはまず受け入れ、その状態の中で楽しく生きている。足るを知るその生き方こそが、真の自由だ。そこには何も介在しない自然体のおっさんがいる。異物が介在する余地のない姿とは無防備で危険な状態ではあるが、そこにこそ本当の自由があるのだ。

 

デゥードな生き方とは、「足るを知りつつ楽しむ」である。

周囲の目や社会的な地位などを少しでも気にすれば破綻してしまう危うい生き方だ。生活破綻者の開き直りでも、仙人のようなやせ我慢でもない、おっさんオリジナルな生き方。これは、普段から何かしらの束縛の中で生きている常人にはまず出来ない生き方であり、それこそがこの映画のカルト足らしめる魅力なのである。

 

 

まとめ 

 

とにかくイカれた奴らが次から次へと湧いてくる映画だが、そんな中で取り乱しながらも最後までデゥードはデゥードなのだ。成長も変身もしない。それはデゥードはデゥードだからだ。何にも影響を与えず、何からも影響されない。このデゥードな生き方、憧れるなあ~

映画自体の内容は、なんちゃってハードボイルドに見せかけたゴリゴリのハードボイルド。コーエン兄弟らしいよく出来ているような感じがするけどなんだかよくわからないような気もするシナリオに、絶妙かつ濃密なキャラクター設定、そして全体を通して唯一筋の通ったデゥードな生き方。

これぞカルト映画である。カルト映画とは要するに、これに共感できる人は少ないけど、共感してしまえば感情移入を通り越した神秘的体験ができるものだ。

ということで、現代日本にはもってこいの映画である。

映画『セッション』が教えてくれる「人を指導すること」について

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今週のお題「部活動」ということで、最近見た映画「セッション」を上げてみよう。

この映画はあの「ラ・ラ・ランド」の監督デイミアン・チャゼルの出世作にして、超低予算ながらアカデミー賞で5部門にノミネートされた下克上作品。

猛烈教師とそれに耐える生徒との戦いと、ひとつの道を極めるための困難さが描かれている名作。

そしてこの映画は、学生時代の部活動体験によって見方が変わる映画でもあると思う。

そんなことを書いてみよう。

 

目次 

 

鬼怖い先生

セッションという邦題の通り、本作は音楽がテーマとなっている。

ジャズドラマーを目指すアンドリューが主人公。彼はアメリカで一番優秀な生徒が集まる音楽学校にいる。プロの音楽家の登竜門である競争の激しい学校だ。

そこには超有名音楽教師テレンス・フレッチャーがいる。この教師は怒鳴る殴るは当たり前で、とんでもなく厳しい。だが、ただ体育会系のノリというわけではない。巧みに生徒たちの心理を操る恐ろしい男でもある。

テレンスはその名声と経歴を武器に、学校内でも王のように振る舞っている。彼のバンドは校内一であり、そしてアメリカで一番の学生バンドとなる。よってプロになるには絶対に立たなければならない場所だ。

テレンスは優秀な学生たちを競わせることで、自らのバンドのレベルを高めていた。だがその競わせ方が、生徒の心を全く無視した非道さがあった。

常に交代メンバーを控えさせ、少しでもミスしたり刃向かうものは直ちにバンドから外した。バンドメンバーの前で大声で侮辱し、存在を否定し、最後には泣かせてしまうことも多々ある。

彼のバンドは、恐怖と緊張によって、その高いレベルを維持している。

 

主人公アンドリューは、何度もテレンスに否定されながらも、時間だけでなく彼女まで犠牲にして喰らいつく。ドラムの腕は確実に上がったものの、アンドリューの周りからは誰も居なくなった。アンドリューにはテレンスのバンドの正ドラマーであることだけが、存在価値になっていた(そう仕向けられた)

最終的にアンドリューはとある失敗により正ドラマーの座から降ろされ、テレンスに殴り掛かり退学処分になる。

 

 

「セッション」と甲子園

セッション」では人生を賭けた目的のために、非道な教師にも立ち向かう青年アンドリューの姿が描かれている。アンドリューは、半狂乱になるまでドラムに心血を注いだ。腕は一流に近くなっていたと思う。

だが、アンドリューはテレンスによって潰された。テレンスは真の音楽家を育てるというよりも、アメリカ最高の音楽学校でも最高の教師という自らの面子のために存在していた。

テレンスに囚われ、ドラムに打ち込むしかなくなったアンドリューはどんどん消耗していき、最後には他人と正常に関わることが出来ないくらい攻撃的になる。そしてそんなアンドリューを、テレンスは自らのバンドにふさわしくないと打ち捨てた。テレンスは、結局自らの名声のために生徒たちを使い捨てにしていたのだ。

 

高校野球はまさにこの光景と同じような世界が広がっている。

日本のアマチュアスポーツ最高の舞台である甲子園は、巨額のカネが動く。マスコミは大いに盛り上げ、学校や名声が上がれば生徒は全国からやってくる、監督もその地位と面子が守れる。

桑田真澄やダルビッシュ有は、日本人投手が故障しやすいのはまさにこの舞台で酷使されることが大きな原因だと語っていた。

大人たちの事情で、酷使させられた高校生の身体には、選手寿命を縮めるほどの大きな傷が残ってしまう。

感動の一言で済ますには大きな代償ではないだろうか?

 

 

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どちらもプロを目指す檜舞台であるが、そこに立てるのは生まれ持ったセンスと、血の滲むような努力、そして苛烈な競争を勝ち抜けた者だけだ。

その舞台へ最後に引き上げてくれるのは推薦者である教師や監督だ

セッション」はその推薦者のあり方が問われている。推薦者であり指導者であるものの責任だ。厳しい指導でも良い。それが一流の逸材へと導くための助言であれば。

この映画の鬼教師テレンスは、恐らく私欲のための指導になっていた。そのため、指導には恐怖と緊張が必要だった。

アンドリューの退学処分後、テレンスは名門音楽学校をクビにされた。数々の生徒たちへの暴力や暴言が問題にされたためだった。

それから数ヶ月が経った。

アンドリューはテレンスと偶然再会した。テレンスはアンドリューと仲直りし、もう一度共にバンドの舞台に上がらないかと持ちかける。アンドリューは了承する。

そしてテレンスの復讐が始まる。

 

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初心忘るべからず

テレンスは、プロのスカウトたちも見に来る舞台の上にアンドリューを上げた。罪滅ぼしと受け取ったアンドリューだが、それはテレンスの音楽学校をクビにされた原因となる密告を行ったアンドリューへの復讐だった。

テレンスは、アンドリューに全く違う楽譜を渡していた。アンドリューは一人全く違う音を叩き、ステージで大恥をかく。テレンスはアンドリューを音楽業界から抹殺しようとしたのだ。

だがここでアンドリューは反撃に出る。舞台上で勝手に演奏を始める。曲はテレンスにみっちり叩き込まれた因縁ある曲キャラバン。怒るテレンスとざわめく会場を尻目に、アンドリューは渾身の演奏を行う。その演奏は次第にバンドメンバーや観客を巻き込み、あの宿敵テレンスは・・・

 

最後の場面は映画史上屈指の会合シーンであり、有音版スラムダンク最終巻なので、必見である。

結局、テレンスも音楽が好きなのだ。同じ音楽でもかけ離れた場所に居たテレンスとアンドリューが、その音楽に引き寄せられるように会合していく。

音楽に限らず、長年一つのことを行っていると、初心の「思い」を忘れがちになる。仕事や指導者の立場にでもなれば尚更だ。最後のテレンスの表情は、音楽への初心の感動や憧れが少しずつこみ上げていく(名演)

ときに厳しい指導も必要だが、本来何を伝えるべきかを忘れてはならない。自らの地位や面子を守るためだけの指導だと、アンドリューのような悲劇が起こる。指導を受ける(耐える)ことが目的ではないのだ。

部活や教育だけでなく、仕事や家庭でも同じことが言えるはずだ。これは非常に難しい。だが、恐怖や逃避で誤魔化しても、指導を受ける側にはお見通しなのは経験済みなはずだ。

 

 

まとめ

 

ハリウッド映画にしては金の掛かってなさが鼻につくくらい狭くて暗い映画だが、ここ数年だと絶対挙げなければならない映画の一つだと思う。

「邦題セッション=原題Whiplash」だが、間違いなく原題が正解だろう。

音楽映画と思わずに、社内研修で見てほしいくらいのブラック企業の胸が痛む映画だ。

 

 

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