脳内バックパッカー

自宅にいながら映画や本の世界で旅をしよう

2016年で読んだ中の特別オススメな本。

今年は子供が産まれたり、Amazonビデオに出会ったりで、なかなか読書できなかったが、過去最高に本を大人買いした年でもあった。

ブログ収入を本や映画に注ぎ込んでいるので金銭面では特に問題はないのだが、我が家の本棚から難民となって部屋の角や隙間で遭難している蔵書ちゃんたちには申し訳なく、そして嫁さんにはもっと申し訳もなく、『それは置いてんじゃなくて、並べてんの!』と言い訳する一年でもあった。

つうことで、とにかく良かった本をプレイバック!

※溢れ出す蔵書事情は最後のまとめに書いてあります。

 

 

反逆の神話

今年の僕のトレンドといったら『妄想爆買い』である。

もう物欲だけは半端なくて、とにかくそんな情報ばかり追っかけていた。

この狂おしいほどの物欲こそ、現代資本主義の闇であり、そしてそのガソリンでもある現象だ!とこの本が教えてくれた。

 

この本によれば、消費とは記号を買うことらしい。

記号とはなんぞや?

例えば「ポルシェ」を買うとしよう。

なぜポルシェを買うかと言えば、職場にいの一番に到着するためでもなければ、新幹線と競争したいからでもない。

それは「ポルシェに乗っちゃってる俺、カックイイ~」である。

アウトバーンすらない、極小道路と角栄高速だらけの日本では、こんなオーバースペックいらんのである。

ポルシェとは、その車としての性能以上に、「ポルシェな価値」がある。

ポルシェはお高いので金持ちしか買えず、国産車のような庶民臭い理由だけのデザインではなく、女にはモテちゃうし、ドイツだぜドイツ、ブレーキがすんごいのよ、女にはモテちゃうし・・・

ポルシェを買う99%の人はこんなことを考えている・・・だろう。移動手段だけなら、ダイハツかスズキかタタ・モーターズだって良い。

この「なぜポルシェなのか?」こそ記号である。

 

なので、我々はこの記号とそれを形成する広告によって消費させられている。

「ハイブリッド車?だせえ!俺はSUVで荒野を駆けるぜ!!」

「スーパーの野菜?そんなもの毒ザマス!私は完全無農薬の提携ファームのものしか口にしませんわ!!」

「エコな暮らしサイコー!太陽ときれいな水があればマジライフ!」

「ファスト風土のゴミブランドなんか着たり食ったり、あいつら豚かね?」

「ラブ・アンド・ピース!歌とドラッグがあれば世界平和♪」

実は彼ら彼女らは全部、資本主義の下僕!広告の餌食!記号に大枚貢いでいる哀戦士・・・とこの本が述べている。

 

結局、知らず知らずのうちに大量消費の片棒を担いでいる・・・奴を馬鹿にしつつ、実はその人達以上に大量消費の神輿を担いでいるのだ。

そしてこの大量消費こそ、労働の物象化だ。

サービス業なんか特にそうだが、自分が何か価値を生み出しているという実感が湧きにくい現代。

「何のためにこんなつらい日々を送っているのか・・・」となった時に、ふと広告の魔の手が忍び寄る。

物を買う=労働の対価であるお金を使う=現物を見たり感じられる=労働の意味を何とか納得できる。

 

だから、労働に価値を見いだせていないと、無駄に物欲が沸いて金を使いたくなってしまう。そして広告は無数の記号をばら撒き、そんな物欲をすくい取ろうとする。

なるほど!

ということは、僕みたいな無気力プロレタリアートは、じゃんじゃん金使って良いんだね(^O^)

 

 

食糧と人類

歴史を語る前にまずは、腹ごしらえ。

というか、腹ごしらえできてないと戦どころかお猿さんのままである。

なんせ人類発展の大原則は、集団生活からの文明社会化であるのだから。

大勢集まらないと、ピラミッドは建てられない。

 

そんなことで、人類の腹ごしらえの歴史である。

特におもしろいのは、リンと窒素の話。

リンと窒素は農業には欠かせない肥料だ。近代までリンと窒素のために、鳥の糞や動物の骨なんかを官民挙げて戦争してまで必死でかき集めてたんだから、現代から見ればちょっと滑稽ではある。

我らがご先祖様が肥桶担いでいたのも、このリンと窒素だ。

 

ハーバー・ボッシュ法が生まれ、化学肥料が世界に蔓延することで、人口超新星爆発が起こり、現在がある。

結局、地球というのはよくできたもので、あらゆるものが循環している

そして人類はその循環のシステムをうまく使うことで発展してきた。

いや、現代はその循環のシステムを破壊するまでになってきた。

食糧と人類の関係こそ、歴史の教科書に載せるべきだろう。

 

循環で思い出したが、牡蠣を食べるとノロウイルスになりやすいのは、下水から海に吐き出される人糞成分に付着しているノロウイルスだと聞いたが、地球もまあこんな感じだ。

 

 

 

ヒップな生活革命

アメリカはポートランドに住む意識高い系な皆様のライフスタイルのお話。

長いこと貯金もせず大量消費しまくって資本主義社会ひいては世界を引っ張っていってくれたアメリカ人。

そんなアメリカ人も最近になってやっと生活を見直そうという人達が増えてきた。

ポートランドに住む意識高い系の皆様は、オーガニックフード、地産地消、DIY、リサイクル、環境、サードウェーブコーヒーなんていう意識高いワードに囲まれて生きてらっしゃる。

でも彼らのいうヘルシーな食事というのが、日本食その物であったりと、やはりアメリカ人らしいトランプな感じを何となく残している。

 

アメリカという国は、この間の大統領選挙でもわかるように、地域によって、全く異なった集団の集まりのようだ。

異性愛者に寛容な地域もあれば、黒人を平気でぶち殺したりKKKがロウソクを持ってゆらゆら行進するような地域もある。

ここが日本人にはわかりにくいところだ。

だがやはりアメリカというのは新しい国で人種のるつぼ、結局のところ、最近の新しライフスタイルや概念といったものは、やっぱりアメリカで生まれるのだ。

バブル期に頂点を取った日本が生み出したのは「平野ノラ」でしかなかったが、アメリカはAppleやGoogleなんかをポンポン生んでいる。

日本や欧州にない「新しい何かを生み出す力」というのが、ヒップというアメリカのスタイルなのだ。

 

あとアメリカというのは、ヒッピーだろうがゲイだろうがプログラミング・オタクだろうが、少数者がどこかしらに集まれる「居場所」がある。

この「居場所」というのが、他の国にはなかなか無い。そしてその「居場所」からイノベーションが沸き起こる。

やはりアメリカはデカイなあという話。

 

 

融解するオタクサブカルヤンキー

「ファスト風土」というナイスなネーミングが光る文化評論。

ファスト風土というのは、日本の中核都市や地方都市が、イオンモールを筆頭にTSUTAYAやマクドナルドやユニクロやヤマダ電機・・・のような通称「イオン・パック」に占拠されてしまい、どこもかしこも同じ景色が広がる現象をいう。

そしてそこに住む人々、特に若者がその量産型ロードサイドの中だけで満足して暮らしていることを指摘している。

例えばヤンキー(DQN)たちは、イオンモールに『家族』や『仲間』と共に『DQN正装』して『フードコート』に行くのがマジサイコー・・・というような感じ。

まあ別に知ったこっちゃないし、本人が楽しければ良いじゃないかと思うのだが、たしかに日本中がイオン・パックに占領され、地域の商店街は死滅し、どこもかしこもゆるキャラ以外個性のないファストファッションみたいな場所になっていっているのは実感する。

 

特に地方の若者は、イオンモールですべて賄えてしまう生活を送っている。

均一化、扁平化した社会では、SNSで通じ合った地元の『仲間』との繋がりが個性でありアイデンティティーとなってしまう。だってみんな同じような物を同じような場所で買い、結局同じような生活をしているのだから。

EXILEとかGReeeeNとかAKB48とか、「仲間さえいれば、俺たち最強!」みたいな音楽が流行るのも、ファスト風土が生み出したものの一つだろう。

 

でも結局のところ、若者の経済状況が悪いことが原因だと思う。

昔のように「花の都」で一花咲かせる意欲はなく、地元で仲間と楽しく過ごせれば良いという若者が増えた。

実家やその周辺で暮らし、仲間と過ごせれば、それで幸せだと思わなければならない経済力しかない、若しくは展望がない若者が増えたということだ。

絶望の国の幸福な若者たち」でも同じような記述がある。要するに「若者は未来に絶望しているからこそ、今の小さな幸せでも満足しなければならない」という思考に陥っている。

昔のようにブラック企業だろうと頑張って働けばそこそこの給料をもらい、嫁さんと子供と一軒家で幸せに暮らせる・・・というかつての未来像を「幻想」としてリアリスティックに見通ししているのが今の若者だ。

だからブラック企業にしても、「最近の若いやつは根気がない」的な論調があるが、会社に奉仕してもそれに見合うものがないんだから仕方がない。会社を信じて、日本経済を信じて、ただただ盲信すれば誰でも豊かになれる時代は終わったのだ。

 

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史上最強の哲学入門

刃牙な表紙につられて買ったけども、内容は至ってわかりやすい。

哲学が好きというより、哲学史が好きなので、サラッと読めて楽しい哲学本である。

いやあ、名前につられてウィトゲンシュタインなんか買っていた中二病時代の無知な私が恥ずかしい。

今年は哲学マイブームだったので、「世界十五大哲学」や「自分を知るための哲学入門」なんかも面白かった。

 

結局、哲学というのは解釈の方法だと思う。

古今東西、色々な哲人が何だかんだ議論してきたが、真理の探求然り、存在然り、哲学とは世の中の現象を何とか理解するための方法を考えることだ。

「何か」を知ることで、より良い社会が作れるかもしれないし、より良い人間になれるかもしれないし、神様だって殺せちゃう。

そこに答えはないが、哲学が練りに練られて数千年、気づけば現代の複雑なシステムが作り上げられてきた。

 

哲学は難しく考えること無く、自己啓発本とでも捉えて読むほうが良い。僕のように凝り固まりすぎてもはやオリハルコンと化した固定概念を溶かすにはもってこいだ。

物事には答えがなく、その取りようによって世界は変えられる。今ある答えというのは、「とりあえず」の状態であり、波風立てずみんなが安全に暮らせるからそうしておくというものもある。

多様性のカオスの中でも、そういった視点を持った主体性があれば、何も気にせず生きていけるのだ。

 

ちなみに「いま世界の哲学者が考えていること」も読んだ。これは最先端の哲学が語られているが、何分僕の知識不足もあるが読みにくい事この上ないのが難点であった。でもバイオテクノロジーと資本主義の回は面白い。

 

 

コーヒーの科学

人生初ブルーバックス!

今年ははてなブログ記事の紹介で手にする本も多かったが、中でもこの本との出会いは驚きだった。

ブルーバックスという物理とか数学といったまず目に定着すらさせない異分野に佇むこの本とは、ブログ記事でしか触れ合わなかったであろう。

これぞインターネット時代の本との出会い、そしてWikipedia的に広がる知的好奇心、そしてそして知的好奇心の広がりに付いていけない遅読者の蔵書たち・・・

岩波文庫や中公新書やちくま文庫の間にポツンと咲くブルーバックスの背表紙は、まるでフェルメールの描く美女のよう。

 

そんなコーヒーの科学だが、コーヒーを落合も振り遅れるくらいリアリスティックかつ科学的な視点を提供する。

ただの焦げた豆の湯通しであるコーヒーを、徹底して科学的に調べ上げることで、コーヒーという存在の存在を高め、ひいては科学の楽しさをも添えて出すという荒業には尊敬の念を禁じ得ない。

コーヒー好きなら是非一読あれ。

 

 

世界史の構造

おっかさん、ついに柄谷行人まで来ちゃったよ!

ものすごく簡単にすると、「世界史を交換様式で分けると見やすくなるぜ!」という話を576ページに渡ってお送りする橋田壽賀子もドン引きな本である。

マルクス先輩は生産様式で歴史の新しい捉え方を示したが、柄谷先輩は交換様式。

海の幸と山の幸を物々交換していた時代から、取り取られ、貨幣が登場し、そして伝説へ・・・という世界の構造を暴露してくれます。

とにかく長くて同じような話を繰り返すので、卒業式の時の賓客の紹介かよ!となりそうですが、歴史好きならばぜひ必読!

 

この本は、「歴史本に飽きてきた頃に読む本」として紹介したい。

歴史は年表や出来事や人物やトリビアを知っているだけでは単なる自己満足でしかない。歴史を一貫して通るシステムや構造といったものの視点こそ、究極の自己満足へ向かう第一歩である。

歴史に方程式はないが、「ほんわかした流れをほんわかそれっぽく説明」することはできる。※マルクスの大発見はこの「ほんわか」である。

ここに文系の悲願があるのだ。

 

 

日本の歴史を読み直す

日本には四季があるがその四季のドぎつい時、即ち真夏真冬という環境による活動意欲の減退若しくは停止のとき、僕は網野先生の本を読むことにしている。

網野先生の本はとにかく「ほー」とか「へー」とかなって「えっへん」となれる、いやしてくださる。

非人や穢多と呼ばれた被差別民はかつて神人と呼ばれており、中世においてその聖性が賤視へと変わる。それは中世という時代の貨幣の流通や宗教の変化によって大きく世の常識が覆った際に起きた数多くの変化の一コマ。

他にも百姓のステレオタイプの破壊、意外に国際交流してたよニッポン、専売は良くないぜ、犬が可哀想・・・などなど、多種多様かつローカルに見えて重大な変化の一コマの応酬。まさに歴史のデンプシー・ロールである。

現代のように技術の目まぐるしい進歩がありながら、大本は特に変わっていないような刹那に生きている僕には、悠久の歴史の下層を流れる庶民的な空気を思いっきり吸える網野先生の本が必要だ。

 

民俗学だとか網野先生や梅棹先生や宮本先生や南方大先生の本を読んでいる時のあの何とも言えない感覚が好きなんだが、誰か共感できる人はいまいか?

あのなんか見ちゃいけないものを薄目で見てるような、知っちゃいけないようなことを隠れて聞いているような・・・

 

 

伝記集

ホルヘ・ルイス・ボルヘスという頭の中が5次元で構成されている、とにかくヤバイ奴の本。

こういった超知的生命体にぶつかると、凡人は「ヤバイ」としか言えないのね

もう何がヤバイって、内容が1gも入ってこないくらいヤバイ。

もう読んでいると、「ここはどこ?私は誰?というかそもそもワタシという存在は何なのだろか?いや、その前に存在とはなんぞや?否・・・」と脳内の所々の概念の自壊が始まるくらいヤバイ。

もうヤバイ。

八岐の園ヤバイ。

何か重大な決定、例えば家を買うとか犬を飼うとか離婚するとか仕事やめるとか上司殴ろうかなとか考えている時に読むとヤバイ。

うわぁヤバイ。

読者を置き去りにするどころか、そもそも何もない。

インターステラーを見たら、少しイメージ付くかもしれない。

クリストファー・ノーランがヤバイ。

 

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まとめ「わたしの本棚」

いやあ~今年は蔵書は増える一方なのに、全然読めなかった。

遅読かつ注意力散漫という読書家として最悪な条件の下、我が家の蔵書たちは今日もホコリを浴びている。

「反逆の神話」にもあるように、やる気のない現代労働者は何か仕事以外のものに興味を向けることで、長時間労働とルーチンワークによる廃人化を防ごうとしているのだが、僕はどうやら「本を買う」ことらしい。

本を読むのではなく、本のコレクションが目的となっている。

今目の前にバロウズとギンズバーグの麻薬書簡なる邪悪な本が置いてあるが、これ一体いつ読むのだろう?というかなんで買った?

これはどこぞのブックオフで「おっ!」となって買った記憶があるが、純粋に読みたいからではなく、我が蔵書であるオン・ザ・ロードの隣に置いてあげなくてわ!という使命感によるものだ。う~んこれで、我が蔵書のビートニク感がより一層高まるに違いあるまいて。なんて思って買ったに違いない。

 

我が蔵書はこういった「◯◯コーナー」のような色を求めている。高円寺の古本屋で大人買いした学生運動時代の過激な本が並ぶ「ゲバ棒コーナー」、読んでもチンプンカンプンだけど威圧感半端ない「フランクフルト学派コーナー」、もう背表紙が並ぶだけで優越感な「岩波文庫コーナー」、カッコいい漢字が並ぶ「日本陸軍コーナー」などなど。

もちろんヒトラーコーナー、心理学コーナー、村上春樹(龍でも可)コーナーという三大中二病コーナーは揃えてある。

 

僕は蔵書に押しつぶされて死ぬのが本望である。

はじめの3ページくらいで目眩がしてそれから一切開いていないウィトゲンシュタインの本が脳天に刺さって死ぬのも悪くない。