「反応しない練習」は超合理的なブッダのライフハック
「反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」」という本を読んだ。
これは、この手の宗教本・自己啓発本が大嫌いな人にこそオススメの「根拠なき心身安定のライフハック本」である。
ブッダの教えというのだから、科学的なエビデンスは一つもない。
だが、脳科学や心理学の「ような」合理性があり、普段のストレス社会では非常に有用な本であった。
逆にいうと、「ブッダが言ったから」というホワ~ンとした説得力くらいが、こういう本にはちょうどよいのかもしれない。
では、この本で学んだライフハックを紹介しよう。
目次
妄想から全てが始まる
先程書いたように、学術的なエビデンスは無いのだから、もう「ブッダが言ったからやってみよう」くらいの取り入れ方で良い。
仏教ではなく、東洋哲学だと思うことで宗教色を排して実践してみよう。だが、原始仏教はそもそも東洋哲学的ライフハックなのだ。
大前提として、全ての悩みやストレスの根源は人間関係だ。
怒りや嫉妬や執着という感情、コミュニケーションが難しいからこそ起きる自信の低下や傲慢さ、そんな悩みの根源は全て人間関係だといえる。
衣食住の安全が確保されている現代だが、高度な社会システムの中で働くことで、人間関係が我々現代人最大の悩みになっている。
では、そのストレスを生むのは何か?
それは怖い上司や嫌味な同僚や妄想癖がある先輩・・・ではなく『自分』である。
むしろ怖い上司や嫌味な同僚などという「決めつけ」=「判断」を行っているのが、「自分の勝手な妄想」である。
人間関係において生じる悩みの全ては、まず妄想から始まる。
「あの上司は僕のことが嫌いなのだ」という判断は、本当に事実だとしても、妄想によってそう決めている。
ほとんどの問題は、自分の妄想で勝手に不安や怒りを増幅させ、恐れたり貶したり敵対する。
逆に相手をより恐ろしく妄想することで、自信を失ったり、鬱になってしまう。
この妄想スタートの判断により、人間関係をより複雑で負の存在にしてしまう。
では、なぜ妄想してしまうのか?
それは相手に反応してしまうからだ。
反応するということは、相手の思考に取り込まれることだ。反応することで、無駄な不安や敵愾心を抱き、それが妄想を生む。
ではなぜ反応してしまうのか?
それは自分を認めていないからだ。たった今、この瞬間の自分を見つめることなく、誇大妄想したり勝手に不安に陥ったりしてしまう。これが不幸な妄想を生む。
例えば、承認欲求が満たされない人はすぐ相手に反応し、自分をより強く見せようとしたり、相手を敵だと誤認してしまう。
だが、まず「自分は承認欲求が満たされていないから、いちいち反応してしまうのだ」と認めることだ。
妄想が浮かんだ時、一歩離れて自らを客観視する。すると「これは妄想だ」と指摘できる。もっと客観視できれば、「この妄想は、承認欲求が原因だ。そしてこの承認欲求は、子供の頃に母親にかまってもらえなかったからだ」というように妄想の原因まで探ることができる。
そうすれば、妄想ではないありのままの自分として存在できる。すると、冷静に相手を見つめることが出来、相手がなぜその様な行動をしているか理解できる。
他人→反応→妄想→判断→不安や怒り
これは、欲求にも使える。
アルコールやギャンブルや買い物にハマって抜け出せなくなってしまう人も、冷静に自分を客観視すれば、その行動の原因がわかる。
一度わかってしまえば、まずそれを認める。
そして、「あ、これは妄想しているな」と自分に言い聞かせる。負の感情ではなく、ただそうしていると認めることだ。
そうでなければ、結局対象に「反応」したこととなり、それを認めたくないあまり「妄想」し、間違った判断をしてしまう。
合理的な非合理性を持つライフハック
お察しの通り、これはかなり矛盾している。
妄想による判断によって生まれた悪循環を断ち切るには良いかもしれないが、「自分を認める」ことすら妄想のように思える。
だが、あくまでもこれはライフハックなのだ。
まず妄想を認め、その原因を探ると、案外どうでも良かったりする。どうでも良いことで、目くじら立てていた自分の無駄なコストを見つめ直すことができる。
ブッダは非常に合理主義者であった。インドのカースト制度に反対したのも頷ける。
ブッダは、インド哲学のような複雑過ぎて儀式化してしまったものを否定した。
ブッダは、「面倒なこと考える前に、こうすれば良いじゃん」という「軽いノリ=合理性」を導き出した。
「あーだこーだ言わずにまず認めちゃえよ。それでもそう思うんならやっちゃえニッサン!」
ブッダはこのようなことを言っていたのだ。
だからこそ、合理的な非合理性を持つライフハックであるこの「反応しない」という考えは、現代社会でも十分使うことができる。
冷静に見つめれば、「こんなクソ狭い日本という国のクソ狭くて歴史に名を残すような価値もない小さな職場で宇宙の時間においては刹那的な一瞬に、俺は何を無駄なことでいきり立っているんだ」と思いバカバカしくなる。
だが、人は相手に反応することで、この深い?洞察を一瞬で飛び越え、不毛な争いの種をせっせと蒔いてしまう。
ブッダの教えはこうだ。
妄想が生まれそうになったらまず目を閉じよ。
そして妄想を押し込めるのではなく、冷静に見つめ、相手を理解せよ。
そうすれば無駄なコストを払わずに効率的に生きることができる。
ブッダの合理主義
僕はこういう本は大嫌いであった。
宗教系自己啓発は、基本的に偽善的で根性論であり、全く役に立たない。
結局は「右の頬を殴られたら、左の頬を差し出せ」的な、「うわ~こんな事されてんのに耐え忍んじゃう俺スゲ~、そんでこいつ哀れ~」という自己満足完結だからだ。それに神話や偉人の話を練り込んで正当性をもたせる。ニーチェ先生が言うまでもなくだ。
が、この本はこの自己満足完結ではない。
自分も相手も否定することなく、どこのものとも思えない妄想を悪とすることで、全てを乗り切ろうというアイデアだ。
これは先程の例と同じようで全然違う。すべてにwin-winなのだ。
我が職場に、唯一僕が尊敬する上司がいる。
この人は、何を言われても全く相手にせず、テキトーにあしらって業務を行っている。
高田純次みたいな感じだ。
何も理解していないくせに承認欲求が異常に高いおっさんや、ただ誰かの悪口が言いたいだけの若い女社員に対しても、仏のような心とジョークで乗り切っている。
僕はそれをそばで見ているだけでも腸が煮えくり返りそうだった。
社内でも煙たがられている彼らの行動は、何も知らないくせによくあんなことが言えるなという印象だった。
だが、上司はこう言った。
「俺はあいつらに何も期待していない」と。
ゾクッとした。恐怖だ。相手に全く反応していない。反応することで得るものはなにもないと、冷徹に認識していた。
この本を読んだ時、まずこの上司の言葉が浮かんだ。
ブッダは「相手に反応せず理解せよ」と言った。
ここに強烈な合理主義を感じたのだ。相手を愛せとか、認めよとか、そんなことは言わない。
ただ理解せよいう。
これは、先程の妄想→判断に当たるのではないか?と思った。
だが、これは「反応しない判断」である。ブッダは世は無常であるから、常に新しい人として見よとも言っている。
そうか、ブッダの合理主義は人を人として見ていないのだ。
これこそ、ブッダのライフハックなのだ。
反応しない事で向かう先は?
この本では「欲」もモチベーションになるのであれば良いと言っている。
それが「快」になれば良いと。
結局、人間は自分が幸せになれば良い。
だから不快なことはなるべく避けて、快を求めれば良い。
だが快は妄想と紙一重だ。
高級車やブランド物の服がほしいのなら、そこに他人に良く見られたい、自分のほうが上だとマウンティングしたいという気持ちはないだろうか?
そういった妄想を極力排除することで、本当の「快」としての生きる道が見えてくる。
その道を突き進むには、無駄なコストや不快に繋がることに反応しないことだ。また快ばかり求めると、不快を生む反応が返ってくる。結局、人々と協力することで、自分の本当の快が見えてくるのだ。
これがブッダの生きた教えなのである。
まとめ
西洋発の近代思想に覆われている昨今、このようなホワ~ンとした本は説得力に欠けるような気がしていた。
だがその説得力すら、ブッダに言わせれば妄想からの判断かもしれない。
西洋思想は、神と対峙した個人という視点であり、そこにある合理性とは排除の論理となっている。だから西洋人は自分の意見はしっかり言うし、自分たちとは違うものにNOを突きつけることができる。近代合理主義は、まさしくブッダのいう妄想→判断の構図内での弱肉強食の世界なのだ。
しかし、この世界のおかげで今の暮らしがある。高い生産性、高い技術、そして豊かに見える暮らし。
ブッダの教えは、近代合理主義とは違う合理性を説いている。
日本は葬式仏教になってしまったが、本来はライフハックなのだ。
そして病める現代、このライフハックはとても重要な考えだ。
実践するのは難しいかもしれないが、少しずつ世界を変えることができるかもしれない。
でも一つ言えることは、このライフハックを学んでから、少しだけ人生が楽しくなった気がする。根拠はないが。
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