安易なマンガの実写化は邦画のディストピア【ネタ記事】
「鋼の錬金術師」の実写版の酷評がネット界を飛び回っている。
チケット代と等価交換できねえ!とかなんとか。
もちろん僕は鑑賞する気がミジンコほどもないので、何も語らない。
だが、日本映画産業はなぜこのような蛮行を繰り返すのか?
デビルマンという世界に冠たる神映画から何も学んでいないのか?
インパール作戦から何も学んでいないのか?
特にこの「鋼の錬金術師実写化」は、原作ファンどころか見に来てくれるであろう客すら軽視している。
鋼の錬金術師はフィクションの世界だが、どう見てもキャラクターは欧米人、町並みも欧米、鎧だって欧米だよ。
これがもし「鋼の錬金術師~お江戸だよ!おっかさん!~」で主人公がちょんまげで弟が甲冑だったらまだ許す。主人公が平賀源内幼少期ならまだ良し。弟が鎌倉時代の大鎧ならもっと良し。
それでも現在放映中の残念設定で実写化するなら題名を「鋼の錬金術師~簡易実写版(昨今の映画不況を鑑みて)」とかにしてくれ。
これなら邦画を憂う一映画ファンとして僕も立ち上がっただろう。
僕は、古の香港カンフー映画に出てくる酷い日本語を操る空手マンが微笑ましい世代だ。
そもそもマンガの東洋人なんて、大友克洋とか谷口ジローくらいしかリアルに描いていない。
「こち亀」実写版ですらイジられているのに、「鋼の錬金術師ならどうでしょう?」となったのか?
この問いに対するアンサーがこちらだ。
始めに言っておいたが、僕はこの映画を見ていないから何も言う資格はない。
だがこの監督の発言を聞けたことこそ、この映画の最大の価値である。
ーー今回のキャストをそろえて、日本人が作ることに理由がある。
「鋼の錬金術師」には有名なセリフもありますけれども、日本人が気持ちを乗せて発したセリフが一番われわれに響くと思います。ルックはある程度寄せていけても、心の部分や文化の違いを寄せることは相当難しい。その面を考えると日本人キャストでよかったと思います。芯を捉えた「鋼の錬金術師」になったと自分は思いますね。
金言!原作が良ければ、キャストやロケ地なんて関係ない。
思いが伝わればよいのだ!
これぞ作り手の熱い血潮が篭った名言である!!!
まさに芯を捉えてのホームラン!!!
そうだ!
孫悟空をニコラス・ケイジが演ろうが、アンパンマンをドウェイン・ジョンソンが演ろうが、遠山の金さんをブルース・ウィリスが演ろうが、エヴァンゲリオン初号機をアメリカンサイコの時のクリスチャン・ベイルが演ろうが、サザエさんをクリストファー・ノーランが撮ろうが、関係ないのさ!
「ルックなんて関係ないのさ!」
なんかブラック企業の幹部の発言のような、精神論にも聞こえる監督の金言。
世界よ!これが邦画だ!
最後に言いたいのは、実写化ありきではなく、実写化したい原作をチョイスしてもらいたい。
※クドいようだが「鋼の錬金術師実写版」は見ていないので正当な評価は見た人だけがするべきだと思う。
20世紀少年とかデスノートとかカイジとか花より男子とか実写化成功した映画やドラマはあるのはある。
だがどう見ても、実写化しても違和感ないものと違和感しかないものの差は烈鬼(ママ)としている。
この差を当事者が自認しながらも確信的に提供してしまうあたりに、邦画の危険さを感じてしまう。
これはもう観客の度胸試しになってしまっている。宮本常一先生的民俗学的なニュアンスの見世物小屋みたいになってしまっている。
実写化の内容勝負ではなく、実写化自体を売り物にしているのは、かなりの末期症状である。怖いもの見たさや珍奇さを売りにしているようでは、昔流行ったシーモンキー育成キット並みの場末感がする。
この一連の実写化現象が通じなくなった時、そこに広がる光景は如何様なものか?
それこそ映画化してもらいたい。
『君の名は。』がなぜヒットしたのかわからないので考察した。
昨年大ブームとなり、世界的なヒットを飛ばした「 君の名は。」を、やっと見た。
実際見たところ、たしかに面白かったが、そんなに大衆向けのアニメではないのになぜあんなにヒットしたのかかなり疑問に思った。
アニメへの受容が深い日本であっても、内容は些か複雑で、決してファミリーや子供向けではない。
では「君の名は。」はなぜ大衆的ヒットとなったのかをネタバレ無しで考察してみる。
肌で感じるリアル
最近流行っている映画というのは、というかテレビもそうだが、「わかりやすい」がキーワードだと思う。ストーリーも安心して見られつつ、ちょっと意表を突くようなものを作業的に入れている作品が多い。テレビは何でもテロップが付くし、ニュースは自称?専門家だらけ。
邦画に絞れば、ヒットしている漫画や小説の実写化ばかりで、役者もほとんど同じメンバーがぐるぐる周っている。
情報量の多さと消費(賞味期限)の速さが究極的に進んだ結果、英単語の小テストみたいな作品が多い。
「君の名は」は、とにかく難解でちょっと置いて行かれそうなストーリーで正直最近の潮流には外れているような気がする。
そこをカバーしているのが、「リアルさ」だと思うのだ。
アニメでありながら、肌で感じ、海馬を突っつき回すリアルさがとにかく観客を引き込ませてしまう。
「青春の甘酸っぱさ」的なリアルさは、かなり強く、しかも巧妙だと思うが、僕はあまり経験したことがないのでそれは置いておく。
「リアルさ」の最たるものが、環境と生活だ。
大都会東京と岐阜県の山間部のド田舎が舞台だが、このリアルさがとにかくすごい。
なんせ大都会とド田舎を両方リアルに描きつつ、大都会とド田舎の高校生がぼんやり想像してそうな「大都会の高校生のド田舎イメージ」と「ド田舎の高校生の大都会イメージ」が実にリアルである。
また町の風景や生活の場面選択が、完璧に近い。
僕は三葉と同レベルのド田舎民だが、三葉の想像している東京像はほぼ納得だったし、とくにリアルだったのが三葉が初めて東京に行った時の目線である。
街を歩いている時のワクワク感と不安と「田舎モンだと思われないような仕草」がまさしく自分だった。
ド田舎ものが東京に行くと、上と下ばかり見る。上はビル、下は行き交う大量の人の群れの足だ。
このような環境の描き方がリアル過ぎて没入感すら感じてしまう。ストーリーについていこうと必死になると、かえって疲れてしまうものだが、環境のリアルさと二人の高校生の状況からの感じ方がいちいちリアルなので感情移入したまま引っ張られる。
都会と田舎の閉塞感
この環境と生活のリアルさは、大都会とド田舎の人々の閉塞感が上手く描かれているからだと思う。
皆が憧れる大都会東京は、僕も少し住んでみて感じたけど、「カネがないと何も出来ない」場所だと思う。パンケーキ1600円なんてものは、ド田舎民からしてみると想像の範疇を超えている。そして人の群れ、建物の群れ、忙しさ、ヤバイ人(レストランの二人)・・・とにかく「高密度から来る息苦しさへの忍耐」の感覚が非常に上手く描かれている。
特に大都会東京像を投影しているのは、奥寺先輩だろう。
あの女性像こそ、ド田舎民が思う東京だ。凛として美しいが、無理やり余裕感を見せつけているようなストレスを感じる。カッコイイし、完璧な人物像ではあるが、かなりの労力と忍耐が感じられる気難しさがある。まさに東京!
変わってド田舎。
何もない日常と何も変わらない生活と何もかもが繋がりあっている閉塞感が、ひしひしと画面から感じる。
とにかくド田舎は変化のないFacebookもびっくりな濃い監視社会だ。町長と土建屋の関係、それを見てヒソヒソ話し合う町民、何のために行っているかもわからない行事、農協っぽい帽子のおっさん、これ以上ド田舎を描くに適した選択があるだろうか?
父親たちの選挙運動前を通る三葉とテッシーの居たたまれなさこそ、ド田舎の閉塞感そのものだ。
この2つの閉塞感は、日本中、いや世界中の人が共感できるはずだ。極端なステレオタイプの生活感を振り子のように見せることにより、都会と田舎だけでなく、社会に生きることを強いられている人間の閉塞感を浮き彫りにする。
そして社会に生きる人間はきっとこう思う。
「じゃあ、僕たちは何のために生きているの?」
ハルマゲドンと選ばれし主人公感
このように、現代人を虚無に導くためだけに延々と閉塞感を垂れ流し、自己否定と「ここではない、どこかへ感」を爆発寸前まで追い込む。
すると『例の事件』の場面になる。
これぞ絶対当たる魔人斬りである。執拗にボディブローを9ラウンドまで打ち続け、足が止まりガードが下がったところで顎目掛けてフルスイングのアッパー!
そう!閉塞感の源は簡単に破滅するのだ。
我々の疑問は、簡単にひっくり返る。すべては幻想の中にいるのだ。現実は幻想を確信犯的に皆が我慢することによって作られている。
この我慢は、いとも簡単に否定されてしまう。
あのシーンを見た人は、それぞれに感じる衝撃が違うだろう。恐怖や不安や幸福や・・・ざまあみろ!という人もいるかもしれない。不謹慎という言葉には、きっとそんな多様な意思が含まれている。
ハルマゲドンのような世紀末感。すべての忍耐が解き放たれる瞬間の感情の揺さぶり。これぞ最強最悪のリアルである。
そしてその後は、選ばれし主人公という役が降ってくる。
どこにでもいる高校生に、自分たちだけが知っているリアルを阻止するための役が。
ここからはRADWIMPSの曲がなくても、全観客が主人公となる。
「閉塞感とその原因」を資料のように提示し、それを一瞬で破壊され、急に現実の救世主に任命される。
破壊と再生の爽快感!これぞ「君の名は」のヒットの理由だと思う。
まとめ
他にも「調味料としての民俗学」や「パラドックスが好きというパラドックス」など、この映画の隠し武器は枚挙に暇がない。
これだけ複雑な構造を大衆向けにまで下ろす作業は並大抵なものではないだろう。
そして時代にとてつもなく合っている。特に日本にはこれ以上ない問題提起だろう。
高度成長期やバブル時代に放映しても、サブカルクソ映画の一つとして数えられていたに違いない。
爆発的観客動員数については、「何度も見たい難易度」とSNSパワーがブーストした要因があるそうだ。これは「シンゴジラ」に近いと思う。
昨今の邦画のインスタントラーメン化とは逆行する「君の名は」と「シンゴジラ」のヒットは、結局日本人の作るものと求めるもののクオリティーの高さは決して低くなったとは思えない好材料であると思う。
でも個人的に、最後の二人の会合は二度見で終わってほしかったなあ。閉塞感を閉塞して終わるという鬼畜映画として、僕の中で殿堂入りしたであろう。
最後に、奥寺先輩はクラリスと南ちゃんに並ぶ「いたらいいけど絶対いない珍獣」としてランクインしました。
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