『君の名は。』がなぜヒットしたのかわからないので考察した。

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昨年大ブームとなり、世界的なヒットを飛ばした「 君の名は。」を、やっと見た。

実際見たところ、たしかに面白かったが、そんなに大衆向けのアニメではないのになぜあんなにヒットしたのかかなり疑問に思った。

アニメへの受容が深い日本であっても、内容は些か複雑で、決してファミリーや子供向けではない。

では「君の名は。」はなぜ大衆的ヒットとなったのかをネタバレ無しで考察してみる。

 

 

 

 

肌で感じるリアル

最近流行っている映画というのは、というかテレビもそうだが、「わかりやすい」がキーワードだと思う。ストーリーも安心して見られつつ、ちょっと意表を突くようなものを作業的に入れている作品が多い。テレビは何でもテロップが付くし、ニュースは自称?専門家だらけ。

邦画に絞れば、ヒットしている漫画や小説の実写化ばかりで、役者もほとんど同じメンバーがぐるぐる周っている。

情報量の多さと消費(賞味期限)の速さが究極的に進んだ結果、英単語の小テストみたいな作品が多い。

「君の名は」は、とにかく難解でちょっと置いて行かれそうなストーリーで正直最近の潮流には外れているような気がする。

 

そこをカバーしているのが、「リアルさ」だと思うのだ。

アニメでありながら、肌で感じ、海馬を突っつき回すリアルさがとにかく観客を引き込ませてしまう。

「青春の甘酸っぱさ」的なリアルさは、かなり強く、しかも巧妙だと思うが、僕はあまり経験したことがないのでそれは置いておく。

 

「リアルさ」の最たるものが、環境と生活だ。

大都会東京と岐阜県の山間部のド田舎が舞台だが、このリアルさがとにかくすごい。

なんせ大都会とド田舎を両方リアルに描きつつ、大都会とド田舎の高校生がぼんやり想像してそうな「大都会の高校生のド田舎イメージ」と「ド田舎の高校生の大都会イメージ」が実にリアルである。

 

また町の風景や生活の場面選択が、完璧に近い。

僕は三葉と同レベルのド田舎民だが、三葉の想像している東京像はほぼ納得だったし、とくにリアルだったのが三葉が初めて東京に行った時の目線である。

街を歩いている時のワクワク感と不安と「田舎モンだと思われないような仕草」がまさしく自分だった。

ド田舎ものが東京に行くと、上と下ばかり見る。上はビル、下は行き交う大量の人の群れの足だ。

このような環境の描き方がリアル過ぎて没入感すら感じてしまう。ストーリーについていこうと必死になると、かえって疲れてしまうものだが、環境のリアルさと二人の高校生の状況からの感じ方がいちいちリアルなので感情移入したまま引っ張られる。

 

 

都会と田舎の閉塞感

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この環境と生活のリアルさは、大都会とド田舎の人々の閉塞感が上手く描かれているからだと思う。

皆が憧れる大都会東京は、僕も少し住んでみて感じたけど、「カネがないと何も出来ない」場所だと思う。パンケーキ1600円なんてものは、ド田舎民からしてみると想像の範疇を超えている。そして人の群れ、建物の群れ、忙しさ、ヤバイ人(レストランの二人)・・・とにかく「高密度から来る息苦しさへの忍耐」の感覚が非常に上手く描かれている。

特に大都会東京像を投影しているのは、奥寺先輩だろう。

あの女性像こそ、ド田舎民が思う東京だ。凛として美しいが、無理やり余裕感を見せつけているようなストレスを感じる。カッコイイし、完璧な人物像ではあるが、かなりの労力と忍耐が感じられる気難しさがある。まさに東京!

 

変わってド田舎。

何もない日常と何も変わらない生活と何もかもが繋がりあっている閉塞感が、ひしひしと画面から感じる。

とにかくド田舎は変化のないFacebookもびっくりな濃い監視社会だ。町長と土建屋の関係、それを見てヒソヒソ話し合う町民、何のために行っているかもわからない行事、農協っぽい帽子のおっさん、これ以上ド田舎を描くに適した選択があるだろうか?

父親たちの選挙運動前を通る三葉とテッシーの居たたまれなさこそ、ド田舎の閉塞感そのものだ。

 

この2つの閉塞感は、日本中、いや世界中の人が共感できるはずだ。極端なステレオタイプの生活感を振り子のように見せることにより、都会と田舎だけでなく、社会に生きることを強いられている人間の閉塞感を浮き彫りにする。

そして社会に生きる人間はきっとこう思う。

「じゃあ、僕たちは何のために生きているの?」

 

 

 

ハルマゲドンと選ばれし主人公感

このように、現代人を虚無に導くためだけに延々と閉塞感を垂れ流し、自己否定と「ここではない、どこかへ感」を爆発寸前まで追い込む。

すると『例の事件』の場面になる。

これぞ絶対当たる魔人斬りである。執拗にボディブローを9ラウンドまで打ち続け、足が止まりガードが下がったところで顎目掛けてフルスイングのアッパー!

 

そう!閉塞感の源は簡単に破滅するのだ。

我々の疑問は、簡単にひっくり返る。すべては幻想の中にいるのだ。現実は幻想を確信犯的に皆が我慢することによって作られている。

この我慢は、いとも簡単に否定されてしまう。

あのシーンを見た人は、それぞれに感じる衝撃が違うだろう。恐怖や不安や幸福や・・・ざまあみろ!という人もいるかもしれない。不謹慎という言葉には、きっとそんな多様な意思が含まれている。

ハルマゲドンのような世紀末感。すべての忍耐が解き放たれる瞬間の感情の揺さぶり。これぞ最強最悪のリアルである。

 

そしてその後は、選ばれし主人公という役が降ってくる。

どこにでもいる高校生に、自分たちだけが知っているリアルを阻止するための役が。

ここからはRADWIMPSの曲がなくても、全観客が主人公となる。

 

「閉塞感とその原因」を資料のように提示し、それを一瞬で破壊され、急に現実の救世主に任命される。

破壊と再生の爽快感!これぞ「君の名は」のヒットの理由だと思う。

 

 

まとめ 

他にも「調味料としての民俗学」や「パラドックスが好きというパラドックス」など、この映画の隠し武器は枚挙に暇がない。

これだけ複雑な構造を大衆向けにまで下ろす作業は並大抵なものではないだろう。

そして時代にとてつもなく合っている。特に日本にはこれ以上ない問題提起だろう。

高度成長期やバブル時代に放映しても、サブカルクソ映画の一つとして数えられていたに違いない。

爆発的観客動員数については、「何度も見たい難易度」とSNSパワーがブーストした要因があるそうだ。これは「シンゴジラ」に近いと思う。

昨今の邦画のインスタントラーメン化とは逆行する「君の名は」と「シンゴジラ」のヒットは、結局日本人の作るものと求めるもののクオリティーの高さは決して低くなったとは思えない好材料であると思う。

でも個人的に、最後の二人の会合は二度見で終わってほしかったなあ。閉塞感を閉塞して終わるという鬼畜映画として、僕の中で殿堂入りしたであろう。

最後に、奥寺先輩はクラリスと南ちゃんに並ぶ「いたらいいけど絶対いない珍獣」としてランクインしました。

 

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