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T2とトレインスポッティングはもはや宗教である

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ついに見た!

あのヘロイン中毒たちが帰ってきた!

そしてダニー・ボイルの中毒患者たちには最高にキマるドラッグだった。

前作とT2を見通してみて、トレインスポッティングの世界観は宗教だということに結論づけたので、その考察を書いてみよう。

 

目次:

 

 

トレインスポッティング

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前作「トレインスポッティング」の内容はもはや言うまでもないので割愛するが、洒落た音楽や映像はもちろん、笑いと涙と哲学までぶち込んだ名作であった。

前作のレントンたちは、まさに『落ちぶれ者』である。

ヘロイン中毒により無気力となり、定職にもつかず、ヘロインを買うために犯罪行為に手を染めていた。

トレインスポッティングの良かった所は、その先進的な演出だけでなく、この愛すべきカス達が徹底的にカスであったところだ。

 

まずヘロインというのは、究極の快楽をもたらす魔法の薬である。

例えば、「毎日死ぬほど練習して甲子園で満塁ホームランを売った瞬間」とか「毎日死ぬほど勉強して東大合格わかった瞬間」なんていう瞬間をいとも簡単に享受できるイメージ(ヘロイン中毒者が言ってた)

彼らは何の努力もせず、その快楽だけを求めていたわけだ。快楽とは本来、過程があってのもの。面倒な過程があってこそ、満足感と達成感がブーストしてくれる。

逆に言えば、ヘロインとは結果だけ見ればコスパが良いのかもしれない。なんせ時間的にも金銭的にもコスパ良く最高の快楽を味わえるわけだ。

 

だがその分中毒性は強い。

結果のみを求め続けても、終わりが無いのである。過程のない結果は瞬間的すぎて、結局時間が大幅に余ってしまう(この辺はT2のレントンのセリフに特に出ている)

前作の最初と最後のシーンで、テレビやCDなどの商品の名前を連ねていくのは、この『過程』の象徴だからだ。

人々は結果の見えない過程の中が退屈すぎて、「消費」してとりあえず過程の中にいるという自覚を求めて物象化する。

商品名を連ねるのは、そんな退屈さを表している。

だから最初のシーンでは過程のくだらなさをバカにしているが、最後のシーンでは過程への妥協で安心を求めている。

トレインスポッティングは非常に仏教的な映画なのだ。

 

無限の苦しみである生、その象徴としてのくだらないモノやコト=過程、過程の象徴であるテレビやCDや家庭や仕事。

ヘロインとはレントンたちにしたら、輪廻からの解脱のようなイメージだったに違いない。

だが、それは過程の中でつまらなそうに生かさず殺さずされている社会の構成員たちからすると、『クズ』の一言で済まされてしまう。

ここにトレインスポッティングのヒットの理由がある。

不況に苦しむスコットランドの絶望感、その中で生きる『クズ』たちの生き方は、社会の構成員でしかない「結果を持たない人々」には一種の憧れ=クールさがあった。

だから学生時代にこの映画を鑑賞した僕には、グサッと来たもんだ。

 

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T2トレインスポッティング

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そして20年後、『クズ』たちはやっぱりクズのままだった。

唯一の希望の光であったレントンすら、社会の構成員から脱落していた。

結局はくだらなくてつまらない過程を大切にしなかったツケは、いつまでも生に取り憑いていく。

まさにヘロインだ。

怠惰な生活は、ヘロインの中毒以上に人生を狂わせてしまう。

 

 

 

・・・という説教的な映画ではない。

彼らクズは、性懲りもなく「結果」だけを求めて犯罪に手を染める。

相手は「過程」の中でもがいているだけのクズ野郎共だ!カトリックが何だ!プロテスタントが何だ!金持ちから金を奪い、奪った金はコカインに消える。

という痛快なシーンはまさにトレスポ。

しかし、最凶の中毒患者が野に放たれてしまう。

我らがベグビーである。

 

T2は20年という歳月を感じまくる主役たちの風貌とは逆に、全く変わらない彼らの生き様を楽しむ映画である。

ちょいちょい小ネタや懐かしネタを噛ます辺りが同窓会みたいで面白い。

彼らは一様に過去への後悔ではちきれんばかりである(変えようとはしない)

その後悔というのが、誰しもに当てはまるのだ。

特に同世代(40歳代)なんか、一人で見てたら嗚咽するんじゃないかと思った。

 

社会は一向に進んでいるのに、自分たちは何も変わらない。そして付いていくことももう遅いし、付いていく気力もない。

あれだけキレていたサイモンが、レントンとの会合後すぐに意気再投合して昔のサッカー選手や聴いていた音楽や悪さした思い出にどっぷり興じ合う姿こそ、この映画の一番の見所である。

彼らは一向に過去の中で生きている。あの時はまだ若さがあった。「まだやれる」「本気出せばいける」感は辛うじてあった。

前作トレインスポッティングは、重度のヘロイン中毒であったレントンが過去の全てを振り切って、そして過去の総決算である「カネ」を持ち逃げするところで終わった。

レントンは、社会に身を委ねたのだ。誰もが嫌いなのに、ほとんどの人間が歯向かおうともしない社会に。

 

・・・と思ってたのに、結局は何一つ変わっていないスパッドやサイモンと楽しそうにやっている。

ベロニカに長講釈垂れるセリフ全ては、社会に身を委ねていた時にレントンが感じ取ったものだ。まるで社会から飛び降りたかのように熱弁するシーンは、現在を必死に生きるベロニカにすれば『このおっさん何を言っとんねん』という感じだったに違いないが、その哀愁を可愛いと思ってしまうのが女心らしいぞ諸君!!!!

 

そして物語の最後、過去の中で未だに現役なベグビー兄さんが阿修羅のごとく追いかけてくる。

殺されるかもしれないのに、何となく昔に戻ったみたいで楽しそうなレントン。

元気がないベグビージュニアが復活したベグビー。

結局、おっさんは過去から逃れられない。

スパッドの小説は、その悲哀なおっさんたちへの鎮魂歌である。

最後にはおあつらえ向きなエンディングを迎える。

 

 

トレスポ教

最終的に人は生の苦しみからは逃れられない。

原罪だろうが輪廻だろうが知らないが、生への挑戦者であった彼らは殉教者の一端に生きながらにして加えられただけであった。

彼らのパンクな生き方のカッコよさとは、この生への挑戦である。

生への挑戦で一番手っ取り早いのがヘロインなのだ。

生への挑戦とは、いろいろな社会的な事情や宗教的な損得でも目指すべき道は現実主義のように見える。

だがそれは詰まるところ作られたカゴの中でのうまい立ち回り方の上手い下手でしかない。

レントンたちは、カゴの外に出ていたのは確かだ。

社会的には不健全極まりないが、誰しもの心の中でひっそりと住む偶像こそレントンたちなのだ。

 

トレスポはそんな偶像崇拝の宗教なのだ。ダニー・ボイルは使徒のひとり。

こういったダークヒーローはゴマンといるが、ここまでパンクに腐ったダークヒーロー像で塗り固められた映画はない。

誰もキリストのように鞭打たれ磔刑にされたくないのと同様、誰もレントンみたいにラリって汚いトイレに沈みたくないのだ。

トレスポは宗教である

 

 

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まとめ

 

いや~久しぶりのトリップ感で文章がラリったかのようにみえるかもしれないが、ご安心を!映画見ただけです。

しかしこのT1とT2の繋がりはすごいものがある。

惜しむらくは、レントンたちと同世代に産まれてからもう一度リアルタイムで見返してみたい。

たぶん僕は発狂するだろう。

 

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ジェフ・ベゾスありがとな!