SNSの中毒性は承認欲求地獄の現代社会にピッタリ!
nounai-backpacker.hatenablog.jp
前回の記事で書いたのだが、現代システムが生んだ「虚無の世界」と「個人の死」という問題を金に変えたのが現代の錬金術「SNS」といわれている。
詳細は上記リンクで見てほしいのだが、簡単に言うと、
虚無の世界
宗教や国家や哲学がポストモダニズムにより殺され、世界は何も実態がない夢みたいなものになってしまった。
個人の死
都市化や情報サービスの隆盛により、個人は単なる労働力であり、消費者であり、自己意識が芽生える土壌がなくなってしまった。
意外とこの2つを考えると当てはまると思う人が多いのではないだろうか?
ではではこの虚無の世界でなぜSNSがこんなに流行っているのか、なぜこんなに中毒性が高いのかを、考察してみたので以下に書き連ねてみよう。
現代社会が息苦しいのは「承認欲求」が激しくなるから
まずは重要なポイントなので前回記事の復習から。
「虚無の世界」と「個人の死」により生まれた空虚感を、1980年台以降の新自由主義時代は金に変える錬金術を生んだ。
それが大量消費社会である。
例えばブランド物の服を着ていれば、「金持ちでエリートな旦那さん」として見られる・・・という記号化だ。
SUVや登山服が最近流行っているのも、皆この商品/記号により与えられるイメージを消費することで、自己意識を作り上げようとする行為だといえる。
これはすべて広告により作られるセルフイメージだ。
広告によりイメージになりやすい記号を作り出し、商品や体験を消費させることで、人々のセルフイメージの創出を促すと共にお金に変えてきたわけだ。
結局これみんな根本のところは「承認欲求」だ。
現代人は「虚無の世界」と「個人の死」により、何者でもない存在である自分となってしまったことが耐えられない。
だが人間は自分自身で自分の存在価値を評価できない。なぜなら自分しか知らなければ良いか悪いかもわからないので評価尺度がないからだ。
ということで、人間は古代から他者の評価を自分で意識することで、自己イメージを作り上げてきた。
ここで重要なのは、「他者の評価を自分で意識する」というところで、実際の他者の評価ではなく、他者にどう見られているかを自分が想像することなのだ。
承認欲求は、広告+大量消費社会を支えてきた。
だが、多様化しすぎた社会では、かつての商品/ブランドという記号は飽きられ、対応できなくなった。
SNSの中毒性を物語る4つの条件
そこで『SNS』がやってきた。
FacebookやTwitterやInstagram、無料で使える上にもはや生活に無くてはならないスマートフォンに最適な相性。
SNSのすごいところは、4つある。
あらゆる生活の中の時間を支配している
スマホの誕生で隙間時間という時間の概念が生まれた。
スマホがあれば、電車を待つほんの数分ですら「何か」ができる。
今まで暇とも感じないくらいの時間が、有用な時間になった。これは膨大な情報が高速で流れでる現代において、情報から「乗り遅れる」という不安感や、高度な情報化やサービスにより社会のテンポがますます早くなったことが原因であると思う。
例えば、相手との連絡が固定電話や手紙しかなかった時代に比べ、現代はスマートフォンの存在でいつでも連絡可能となった。「待つ」ことがほぼ無くなり、コストも最小限になった。荷物はすぐ届き、ATMやクレジットカードのおかげで金はすぐ払えるし、GPSに頼れば道に迷うこともない。
すべてが効率化されたことにより、その分空いた時間に何かがねじ込まれる。せっかく効率化したところで、そこに仕事やサービスがねじ込まれ、結局労働時間が減らないように、現代は時間のテンポがどんどん早くなっている。
隙間時間とは、極限の効率化により生まれた、新たなフロンティアであった。
SNSは、その隙間時間というフロンティアを支配している。
理由はタイムラインにある。
タイムラインという「どうでもよい場所」
すごいのがタイムラインだ。フォローした人の情報が勝手に流れてくる。
メールやチャットのような今までの情報共有ではあり得なかった発明だ。
他者に何かを発信しようとすれば、今までは相手と目的があった。
だが、タイムラインは相手も目的も必要としない情報すら、有益な情報に変えることができる。
何か意味のあることを明確な相手や目的に合うように発信しようとすれば、かなりハードルが高い。
「何言ってるの?」といわれてオシマイ!なんてことになる。
タイムラインであれば、その必要はない。例え明確な相手や目的や意図があっても、「いや、ただの独り言」と言えるのだ。
タイムラインは単なるコミュニケーションツールとしてでなく、単なる独り言や個人のしょうもない妄想を発信しても良い場所なのだ。どうでもよければただ川に流れる葉っぱのように情報の海へ流れていくだけ。たまに燃えるけど。
こうなれば、人々は隙間時間にそういったただ流される情報を何かしら発見がある・・・かもしれないと思って逐一チェックする。
自分が発信すれば尚更だ。奇をてらって無視されても、「まあ独り言だし」と流せるし、かまってもらうと自己イメージの足しになる快感がある。
タイムラインは承認欲求を満たし、自分を確認できるハードルの低いコミュニケーションの広場なのだ。
多様化の中で埋没しかねない自分を、多様化すぎる情報の海で似たような思考の持ち主を見つけるだけで安心感があるし、そこで評価されれば承認欲求が満たされる。
しかもそれは「別にどうでも良い場所」なので、「学校へ行こう!」の未成年の主張のように気合を入れなくてもよいのだ。
情報と承認欲求のカスタマイズ
多様化複雑化高速化した情報社会では、情報が個人のセルフイメージの創出を行っている。よほど極端な存在でないと、ほとんど差異が無いか違いすぎて無視されるからだ。
しかし、そんな大切な情報が莫大かつ高速なので、一人の人間が全てを網羅することができない。
SNSはそんな情報をカスタマイズして自分に最適な情報を集めてくれるツールである。
SNSは自分に近い人間を検索することで収集できる。本当の友人グループも作れるし、趣味嗜好が合うグループ、政治思想が近いグループ、仕事に役立つ情報を持つグループなどなど。本来の対人関係ではここまでのグループを形成するのは、多大な労力を必要とする。
ここで重要なのは、情報だけで繋がったグループだ。
趣味や政治など、本来かなり親しくならないと共有できない情報も簡単に得ることができる。多様化複雑化した情報を選択するというのは、途方もない作業なので、情報を持つ人の情報を収集したほうが手っ取り早い。
また実生活でうだつが上がらなくても、SNS上のグループで承認欲求を満たすことができる。政治的に過激な発言により注目されることで、承認欲求を満たすことだってできる。
この場合、承認欲求が満たされやすい/共有されやすいグループや場を見つけることで、新たな世界を作り出すことができるのだ。
自動で広告とイメージを拡散できる
今までの広告は、テレビのCMや雑誌など一方通行で時間やタイミングもかなり限定的であった。
さらに垂れ流しに近いので、多様化した現代人にはすでに効果は低いものとなっている。垂れ流しなので、個人よりもある程度の共通グループか大衆向けのイメージ戦略になってしまう。
だから最近のテレビCMや番組は、高齢者向けばかりになっている。彼らはスマホを持ってないのもあるが、現代で数少ない単純明快な共通グループだからだ。
SNSは一方通行ではなく、ひとつ広告を投下すると全方位に拡散される。しかも、勝手にその広告に興味のある人間を狙って拡散していくのだ。
これであれば、多様化・複雑化した現代社会でも、アルゴリズムと人と人のつながりがニーズに最適な広告を最適な対象へと探しては撒き散らしてくれる。
しかも、イメージをこれまた自動で作り上げてくれる。
多様化した社会では、企業が商品を売りつけるために作るイメージでは、顧客との間を埋めるのが難しい。昨今の日本企業の振るわないところはまさにここだ。
SNSはインフルエンサー・マーケティングのように、イメージを客側で勝手に作り上げてくれる。親に買ってもらった服より、友達のオシャレな兄ちゃんが着ていた服の方がカッコ良いのは当たり前だ。
SNSは広告とイメージの最適化を自動でやってくれる、まさに現代の錬金術だといえる。
だからSNSは基本的に無料なのだ。我々はただ無料で使っているのではなく、無料で価値の高い個人情報を提供し、無料でマーケティングやイメージ戦略を肩代わりしているのだ。
SNSの中毒性の真相は・・・
以上の4点をまとめるとSNSとは、
①スマートフォンの普及により生まれた隙間時間を支配している。
②タイムラインでコミュニケーションのハードルを下げ、承認欲求が満たされやすい/刺激されやすい場を作る。
③情報収集の自動化、承認欲求のカスタマイズができる。
④商品の広告やイメージの自動最適化。
これを踏まえると、SNSの中毒性の真相が見えてくる。
前提:多様化により個人の承認欲求が強くなる
・承認欲求を満たすために必要な他者が簡単に集まる場所
・低いハードルでコミュニケーションが可能
・低いハードルで承認欲求を満たすことができる
・膨大な情報を自分好みに収集できる
・多様な承認欲求を満たす場をカスタマイズできる
・SNS企業に莫大な広告料が入るので低コストで利用できる
SNSの中毒性が高いのは、このように低コストで承認欲求を確信犯的に満たすことができるからだ。
これはポストモダニズム的な「虚無の世界」と「個人の死」という大前提がなければ成立しない。
何も無いし自分が何なのかわからないからこそ、タイムラインに無目的につぶやいたり、カオスなタイムラインを眺めることができる。
江戸時代の日本人にタイムラインを見せたら、理解できないだろう。
「結局これ何が目的なの?」と言われるはずだ。
さらに隙間時間が発生したような時間の概念の転換も影響している。
情報の海と、情報の高速化により、社会は目まぐるしく変化しているようで、自分は全く何者かもわからない。
「自由からの逃走」でエーリッヒ・フロムが指摘したように。
だが、結局SNS上での承認欲求は打算的で無意味なものであると思う。
なぜなら、真の達成感を得ることはできないからだ。
すべてのハードルが低いぬるいお湯の中で、刹那的に注目されただけでは、喉の渇きを潤すために塩水を飲んでいるようなものだ。
SNSは承認欲求を満たすために集まった人たちの場であるため、作られたイメージを見せ合い、確信犯的に承認し合う世界である。
それをゲーム感覚で扱うなら良いが、炎上騒ぎを起こすような事案は、この本質を見抜いていない。
結局、SNS上でも本当に認められるのは、実社会で何かを成した人だけなのだ。ZOZOタウンの社長とかね。
そして、承認欲求を他者へ完全に依存してしまうと、本当の自己イメージはいつまで経っても形成できない。
SNS企業が大儲けしていることを考えれば・・・ね。
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ということで、SNSについて書いてみた。
なぜSNSが気になったかと言うと、前回の記事で現代システムについて調べたときにお世話になったマルクス・ガブリエルが「欲望の時代を哲学する」で「ポストモダニズムに最適なのがSNS」と語っていたのが気になったからだ。
つうことで、Twitterをやってみた。
だいぶ昔にちょっとだけやっていたのだが、長らく放置していた。
で、普通につぶやいていると・・・わりとハマった(笑)
ということで、中毒になりかけですが良かったらかまってやってください。
・・・承認欲求に負けた。
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