『カメラを止めるな!』はゴスロリファッションで池上彰が消費税増税の説明をしているような映画
やっと見たよ「カメラを止めるな!」
この時代にこの脚本を大真面目に書いた上田慎一郎監督とこの映画を作ったスタッフとこの映画にGOサインを出したお偉いさん全てに感謝の意を込めて宇宙に打ち上げるレビューを書いてみました。
壮大な学園祭ノリと2つの?
全体を通して、アマチュア感満載な空気を意図的に作り出している。
低予算、無名俳優、無名監督、この全てももはや戦略兵器だといえる。
見る側に与える「安心感」、アマチュアだからとあえてナメさせることで、前・中・後と全く様相が違いながらも同じキャストで違うキャラクターと空気を映すという、一度踏み外せば地獄へ真っ逆さまな複雑な作風をサラッと流すことに成功している。
これが有名俳優なんぞ使っていようものならば、一瞬で瓦解する。なんせ観客にちょっとした意図すら飲み込ませるわけにはいかないからだ。
まず前半の唐突なワンカット撮影シーン。
全編を通して、物語になっていそうでちょいちょい「?」な場面がある。
この「?」を「?」でとりあえず処理させないことには、後半パートへ観衆を導くことができない。
「?」を終始引っ張るためには、何の色もついていない画用紙を使うしか無かったのだ。ただ闇雲に書かれている画をスライドショーで見せられるのに耐えさせなければ、後半のパンチがクリーンヒットしない。
「?」は二重構造になっており、「脚本の?」と「全く意味不明な?」がある。
「脚本の?」はストーリー上で起こる不可解な点。人間の脳の認知的不協和に爪が引っかかる程度の?。
例えば都合の良いところに置いてある斧を手にするシーンなんかは、「普通の」映画を見慣れている者にとって不可解な点として受け取られるだろう。
「全く意味不明な?」は急に役者の演技が止まったり、何度も悲鳴を上げるシーンが続いたりする例のシーン。
あれなんかは本当に何が起こっているか理解できない。
この2つの「?」をタイミング良く打ち出すことで、「?」のまま映画は進行し、だがしかし「つまらない」とも思わせず、何が何だか分からないけど続きが気になるゾーンをウロウロする構成になっている。
中盤は作品の経緯を映す。
ここでは腑に落ちないシーンの数々が少しずつ回収されていくヘンゼルとグレーテル状態が続き、少しずつだが確実に観衆を引き込んでいく。
ここで巧みなのは、キャストのキャラクターの真実だ。たいてい変人で、何かしら爆弾を抱えている。この爆弾は手榴弾くらいの威力だが、後半パートで確実にこちらを仕留めてくる。
終盤、ドラマ撮影の撮影シーンが流される。
ここはもう見ているだけで良い。3時間くらい我慢していたかゆいところに飛んできた紙飛行機の先端が当たるくらい心地よい。
かなりの後出しジャンケンではあるが、見ているときにはなんとも心地よく、脳内をルンバが掃除してくれているようで安心できる。
三谷幸喜感
もうどう見ても三谷幸喜の『ラヂオの時間』の構造そのまんまである。
三谷幸喜の回収パターンの心地よさと満足感を、もっと強引でちゃっちゃと済ませてすでに打ち上げしているような映画だ。
爆発的ヒットしたのは、この回収パターンの説明臭さのないわかりやすい説明が老若男女問わず共有できるからだと思う。
よくよく見ると、ここまでストーリーの説明を懇切丁寧にしてくれる映画は無い。
まるで池上彰の番組を見ているようだ。例えるならゴスロリファッションで池上彰が消費税増税の説明をしているような映画だといえる。
三谷幸喜との違いは、「安心感」だろう。
とにかく三谷幸喜の映画は安心して見ることができる。
キャストもお馴染みだし、俳優のキャラクターをそのまま取り入れているからだ。
この映画はそこが全く違って、終始不安にさせながらも、後半怒涛の安心パックで送り出してくれる。
わかりやすくいうと三谷幸喜が「ハングオーバー! 消えた花婿と史上最悪の二日酔い」撮ったらこれに近くなるんじゃないかな?
まとめ
でもでも久しぶりに気骨ある邦画を見たような気がした。
邦画って昔はけっこう攻めていたよね?
今の邦画はノーアウトランナー1塁でもバントしかしない田舎のリトルリーグみたいになってるけど、この映画は2アウトランナー3塁で2ストライクなのにセーフティーバントやってくる感じだよね。
でも映画ファンはこういうの求めているんだよ。だからヒットした。もちろんこんな映画は9割は即死するのは目に見えている。
黒澤明はこれを莫大な費用かけてやってたんだから、どういう心臓していたんだろう。深作欣二は名匠と言われてからもこんなことばっかりやり続けていた。
だからこそ今でも名声が続いている。
上田監督にはこの姿勢を死ぬまで続けて欲しい。
この映画で儲けたカネ全部使って、怪獣映画とか作って欲しい。
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趣味、それは資本主義が生んだ化物
僕は趣味に勤しんでいる。
本業は趣味の軍資金を稼ぐためのものでしか無い。
趣味はウィキペディアのように広大に広がり、マントルの核心部まで深く深く掘り下げられ、そして資本主義経済の動力の一部となって消化されていく。
趣味は資本主義が生んだ化物だと思う。
そんな趣味について、カメラ、登山、キャンプ、読書、映画、筋トレ、トレイルランニング、サーフィンなどなど、もはや趣味が多すぎて何がしたいかわからなくなった私めが考察してみよう。
趣味、それはルーチンライフからの脱却
現代資本主義経済において、我々庶民は工場の機械と何ら変わりはない。
与えられた物を言われたとおり加工し製品を作る。そこに主体性はなく、自らが生み出した製品がどうなっていくかは、本質的に知ったこっちゃない。
要するに、資本主義経済の中の末端構成員の労働とは、過程のごく一部でしかない。
マルクスは疎外という言葉を選んだが、言い得て妙である。
近代以前、庶民の労働とは始めから終わりまでの全行程の殆どを明確に意識しながら実践していた。
農業然り、鍛冶屋然り、猟師然り、生産性が異次元に低く消費社会ですら無い近代以前の労働の9割はそんなものだった。
当時は必要以上の需要は無く供給もわずかでインフラすらなかった。
地産地消という最低限の市場しかなかったのだ。
が、産業・金融革命以降、すべてが変わった。
需要は消費となり、供給は不人気プラモデルでもネットで頼めば1日で賄えるくらいになった。
しかし、この傍若無人な資本主義経済が成った時、それすなわち労働から主体性が抜き取られ、いつまでも目が書き足されない泡沫議員のダルマのようになってしまったのだあああ!
そんな労働だが、この近代を楽しむために必要となった巨額の経費を賄うために、我々庶民は技術革新がどれだけ進もうが変わらず寧ろ高度で過酷でニッチになっていく。
さらにJAPANという生産性度返し精神主義タテマエ国家において、我々庶民は軍事工場で何やらよくわからないパーツを作らされている女学生のごとく、月月火水木金金ルーチンワークに耐えられるよう脳に教育という名のもと刷り込まれている。
冷静になってくれたまえ。
こんな生活、人間は耐えられるようにはできていない。
朝から晩まで、人生の大部分の時間を、有限かつ貴重な時間を、個人と家族との時間まで犠牲にして、『何をしているのかよくわからない』のである。
そりゃ人身事故増えますわな。
好奇心旺盛さだけで生き残った我々ホモ・サピエンスは、こんな生活ダメ・絶対なのである。
そこで生み出されたのが『趣味』である。
趣味はルーチンライフに差し込む光である。
この光を浴びているときだけ、狼男のように我々庶民は主体的な生を感じることができるのである。
趣味はこれでもかと言うほど、「自己満足」の魂魄である。
そこには生産性も拘束時間も働き方改革も関係ない。
「主体的に自己世界へ没頭できる時間」これこそ、近代において失ったライフワークの最も大きな部分であった。
近代以前、これは生への執着であった。生存するだけでも過酷だった時代、生への執着は労働であり、信仰であった。これは生存するという至上命題としての主体性と、外部から作られた宗教的自己世界により、人間は黙々と生きていけた。
しかし、消費社会となった今、我々は主体性なき労働により生み出したであろう何かを確認できないという地獄の中で、趣味という主体的な何かを手にしたのだ。
生活が豊かになり、生への執着が減少し、その余剰として生まれた僅かな時間、その時間だけが主体性を発揮できる逆説的な生への執着となった。
とりわけ現代資本主義ライフに疎外感を感じている好奇心旺盛で90年台パニック映画で真っ先に死んでそうなフラグ人間には、趣味こそ生きがいとなっている。
そしてこの趣味は、悲しいかな資本主義経済が生んだ化物であった。
趣味、それは資本主義の権化
かつてかのスターリン時代、ソ連では労働者にバカンスとして短いロシアの夏を楽しめる宿泊施設を無料で貸し出していたそうな。
あの共産主義を履き違えた収容所国家ですら、近代以降の労働による人間性の破壊を認めていたのだ。
そして我が資本主義社会、それは僅かな余剰時間に有料でポンと投げられた。
よくわからない労働の成果が確認できない我々庶民は、その対価として受け取ったマネーを使って商品と交換することしかなかった。
生活必需品は十分足りている。
故に我々庶民は、周りを見渡すのであった。
すると皆同じような姿かたちをして同じようなものに囲まれて同じような家でに住んでいた。
ああ、何ということでしょう。
わたしはいったい何のために存在するのでしょうか?
資本主義経済は庶民を労働力として消費し、個人としての人間性を抹殺した。
自らの存在意義が腑に落ちない一部の人間は、身の回りの商品を他人と変えることで人間性を取り戻そうとした。
ブランド品や「いいね」はそこに漬け込んでいる。
自らの存在意義が腑に落ちない一部の人間は、酒やギャンブルや異性に刹那的な人間性の断片を求めた。
パチンコや課金ゲームやガールズバーはもちろんそこに漬け込んでいる。
自らの存在意義が腑に落ちない一部の人間は、趣味に生きることで生きていることを肯定することにした。
この趣味は資本主義経済と密接に絡み合っている。
趣味世界は自由に見えて、中華人民共和国共産党の序列のごとくゴリゴリに階級化されている。
カメラを手にとった若者は、世の中にフルサイズや4Kなるもっとすげえのがあることを知る。インスタグラムで写真を眺めると、なんか星がぐるーっと回っているすごい写真や、コントラストや遠近法が無茶苦茶なのになんかすごい写真を見てすげええええってなる。そしてまたカメラを買う、三脚も買うし、レンズもいつの間にか増えている。
そして写真雑誌の入賞作品を見ると、端っこの方に入賞者の使っている装備がズラッと暗号のように並んでいる。この暗号が解読できるようならもはや洗脳済み。ああ、あれも買わないと、これも買わないと、そして上級者になればなるほど同じようなものを買い集めている。それで満足は完結するかと思いきや、まだ終わらない。商品は腐るほど湧いてくる。人間の目ではもはや変化すら感じ取れない世界でも、階級闘争は繰り広げられている。
趣味の階級闘争は熾烈であり、だからこそ仮想世界にどっぷり自己投影できる。
そこはトランプも真っ青なレイシズム世界であり、差別と格差しかない徹底的なマキャベリズムに覆われた暗黒世界。
金と時間と人脈を駆使し、築き上げられた階級社会は、排除の倫理で裾野を広げ、経済規模を以下に増やすかという至上命題しか考えられていない。
登山もそうだ。
スペック戦争は軽量化に矛先を向けた。
雑誌を見ればいつも同じ面々が、あからさまな否定をせずに軽量装備こそ至高だと謳っている。
トレイルランニングもそうだ。まだ新興の趣味であるトレイルランニングは、今は先行者利益をがっつり回収中。
そのうちサーフカルチャーのようになるであろう。
かといって映画のように古参の趣味世界は、もはや階級闘争が収拾し、新規参入者がいなくなってしまいアベンジャーズ状態である。
オーディオは終戦末期の日本陸軍のようになっている。
最近はキャンプだ。
キャンプブームはリバイバルブームだが、前回の失敗を反映し、非常に巧妙に階級化をゆっくり構築している。
消費には差別化が必須だが、価格設定が絶妙で、しかも低所得層向けの広告戦略が抜群にうまい。
安価な商品は「DIY」なる殺し文句で自己満足と承認欲求を昇華させている。
高級商品の存在感とは、全く別次元に住み分けさせることに成功しているのだ。
しかしこれはすべてSNSの存在が大きい。これは後述する。
要するに、資本主義経済下の趣味とは、わざと隙を見せて残りカスまで回収する資本主義の資本主義足る部分が露骨に曝露されているのだ。
趣味とSNS
そんな資本主義経済下の趣味をブーストさせるのがSNSである。
趣味とは自己満足でしかない。良い写真を撮ろうが、すごいタイムを出そうが、おしゃれなテントを張ろうが、半径10m以外には感知すらされないどうでもよい世界だった。
だが、SNSが現れた。
今まで半径100mくらいの世界での承認欲求しかなかった現代人が、全世界70億人を対象とした承認欲求バトルロワイヤルに無料参戦させられたのである。
他者からの承認は、ルーチンワークによる破壊された個人としての尊厳を唯一担保してくれるものだった。
それがスマートフォンさえあれば、全世界の人間を対象とした承認を受けることができるように成った。
この承認は二面性がある。
まず「いいね」や「ともだち」の数という目に見える承認、そして本当に承認させたい相手へのマウント取りである。
ホンネとタテマエの承認を両取りできるのだ。
それは現実社会で承認されていなくても、SNS上の承認があれば満足できてしまうともいえる。
SNSは仮想世界をリアル世界へ投影させることができるツールだ。
世界は2つになった。
そして2つの世界は車の両輪のごとく、密接に連携している。
趣味はこのSNSと親和性がバッチリだ。餃子とビールの関係を思い浮かべて欲しい。
SNSには本当の友人と、趣味の繋がりだけの友人がいる。先程の2つの世界の縮小版だ。
趣味+SNSは仮想世界をいくつも創造できる。その中で手応えのある仮想世界に自己像をシフトすれば良い。
趣味世界とSNS世界を融合させ、理想の自己像を自分でプランニングできる。
SNSは都合の良いところだけを見せつけることができるからだ。
しかしSNSは諸刃の剣である。
田舎の趣味サークルでは一等賞でも、世界の趣味サークルであるSNS上では、上には上がある。しかも天井打ち抜きのウルトラ一等賞が君臨している。
趣味世界の階級闘争が、SNSで明確に序列化され、趣味という世界の全体像が露わになる。
もちろん趣味世界の商品を提供している会社は、SNSに広告費を打ち込んでいる。
こうなれば資本主義経済の枠にガッツリ嵌め込まれる。
そしてマネーゲームという地獄絵図と化すのである。
最悪の軍事同盟『趣味と金儲け』
SNSはそこへ、現実のマネーをぶち込みやがった。
これは悪魔の契約である。
現実社会のマネーによる現実感から逃避するためのアジールであった趣味世界が、マネー信仰のウォールストリートみたいになってしまった。
「趣味が金になる」これほど現代人を揺さぶる言葉はあるだろうか?
仮想世界の自己像が現実世界へ取って代わるのだ。
これは革命である。しかし資本主義経済が生み出した偽装革命ではあるが。
この革命のヒーローは、消費材だ。
趣味というある意味主体的な自己像創設の場から、認めたくなかった消費社会に自ら足を突っ込んだのだ。
現実マネーが加わると、これまで以上に差異の創出が過激化する。
階級闘争は莫大な燃料が投下されることで歯止めが効かなくなり、なりふり構わない消費戦争の荒野となるであろう。
だが承認欲求に現実マネーが加わると恐ろしいことになるのは先行事例がある。
そう、パチンコである。
まとめ「趣味とは」
結局の所、趣味とは現実逃避である。
それ以上でもそれ以下でもない。
そこに資本主義経済がドンと居座り、たくみにマネーゲームを創出している。
SNSや専門雑誌を覗いてみよう。
そこには大きな波のうねりがある。よく見る顔はいずれ隅に追いやられ、新たなよく見る顔が登場する。
勝ちパターンにハマれば、ボリュームゾーンの庶民から投資分以上を回収できる。
そしてそこへ唾を吐く輩は、さらに差異を求め、不要な高スペックの高額商品を買い漁る。
階級闘争であり宗教戦争である。
答えは一つ、終わりなき日常がまた繰り返される。
そんな私めですが、今月ネットバンクから20万円ほど刈り取られます。
レンズって高いよね。
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