ブラックコメディ映画『JOKER』が突いた現代社会の痛いところ

ジョーカー(字幕版)

ストーリーやホアキン・フェニックスの演技は言うまでもなく素晴らしかったので、今回は映画「JOKER」が皮肉る現代社会の痛いところをブラックに晒してみたいと思う。

※ネタバレ注意

 

 

 

 

格差社会の構造

格差社会がテーマだろうことはお察しの本作。

なんせアメリカという国は極端過ぎるトランプやサンダースが政治の表舞台でやんややんや大騒ぎできる国。

これは個人的には幸せなことだとは思うんだが、まあそれは檸檬 in デパートのように置いておいて、この格差社会を表のテーマとしつつ、本作はその裏に隠された醜い部分を鉈で刳りだしている。

 

本作は主人公アーサーへの徹底的な同情路線を突っ走っている。

貧困、障害、母親の介護、悲劇の出生などなど。でもこれは現代社会の格差を語る上でまず挙げられる項目であり、これ以上わかりやすくないくらい単純化されている。

アーサーの出生の秘密と「これも妄想ではないか?」という疑心をうまく使い、この単純さに意識を向けさせないような脚本になっている。

 

だがこの同情こそ、諸刃の剣であり、自らの正体を暴く釘爆弾なのだ。

「我々」は持たざるものとして映画を眺めている。アーサー側の立場だ。故に勝ち組である人間が悪役として映る。

しかし冷静に考えれば、電車で殺されたエリートサラリーマンは酔っていただけであり、例のパパは子どもに会いに来たアーサーを不審者だと思っていただけかもしれない。例のパパとの関係は結局謎のままであるが。

だが勝ち組の代表たる彼らは、完全悪である暴力により殺された。

だがこれが痛快なのである。ざまあみろであり、メシウマなのだ。

後半の暴徒の王となり承認欲求が満たされたアーサーの姿への感動は見せかけであり、この映画の重要なポイントは、勝ち組への暴力を肯定してしまうところである。

 

ここに結局、「我々」も悪である勝ち組たちと同じ人間であると暴露されるのだ。

資本主義社会における勝ち負けは必然であり、現代社会は「世界に一つだけの花」とか腐ったことを言いながらも完全なるヒエラルキーが敷かれた競争社会だ。

故に「我々」はその序列を甘んじて受けながらも、上のものがしくじればメシウマであり、下のものがいるのは『当然』だと思っている。

よって勝ち組たちが殺られるのは快感であり、それを実行したアーサーは英雄となる。

格差社会を否定しているくせに、このヒエラルキーにどっぷり浸っているのだ。

何故そんな事ができるかというと、上と下に人がいるからであり、自らの位置を正統であると自認しているのである。

 

ではアーサーとは何か?

アーサーはいうなれば「賢い犬」だ。

人間は犬を家族と思っているが、内心は下等な畜生だと思っている。

そうでなければ服なんて着させないと思う。

そんな犬が何か芸をすれば、ネットで拡散しまくって「いいね!」の山ができる。

だがそんな芸なんて、人間であれば保育園児でもできる。

「我々」はアーサーを社会の底辺であると同情しながらも見下しており、その存在をヒエラルキーの末端へと押しやり、さらにそれが「当然」だと無意識に認めている。

貧困、障害、母親の介護、悲劇の出生・・・こんなタグが並んでいるからだ。

この同情とはヒエラルキー末端の人間の生活観察からくるもので、自らの地位への服従が是であったとの確認作業である。

ここにも格差社会の肯定が潜んでいる。

同情=笑いもの=ピエロという構図は絶大な効果があり、複雑なアーサーの心情をすんなり飲み込めてしまうのは、格差社会を肯定しているからこそである。

よって「JOKER」は格差社会の極端な人間を映し出し、自らの格差社会への服従を投影させているのだ。

 

 

 

無敵の人が生まれるまで

昨今、凶悪な無差別テロ事件が世界各地で起きている。

京都や川崎の事件のように、何の関係もない人間を傷つけ、そしてただ死刑を望むという犯行理由は正直理解できない。

が、これを「無敵の人」と呼ぶネットスラングがある。

これは失うものがなにもない人という意であり、格差社会問題の筆頭に挙げられている。

何らかの理由で社会的・経済的に追い込まれ、そこから抜け出すことができなくなった人間が起こす事件だからだろうか。

JOKERは、アーサーがこの「無敵の人」になるまでの過程を入念に描いている。

 

冒頭のアーサーは自らの生活環境に不満を抱いてはいたが、それを「認めていた」。

自分が精神病であり、貧困であり、病気の母親を介護している。その事実が現代社会において負の部分であり、こうなったのは「自分の責任」だと思っている。

格差問題で不満を叫ぶ人々も、結局は「自己責任」だと思っている。

もっと努力すれば上の階層に行けた「かもしれない」し、あの時にこうしたらもっと良い生活ができた「かもしれない」。

生まれた環境で歴然と差がついていたとしても、スティーブ・ジョブズのように裸一貫からヒエラルキーをぶち抜いた人間がいるではないかと、これでもかと成功譚を見せつけられている。

だからこそ、現在の自分の生活は必然である、そう自認している。

 

だがアーサーは次々と起こる悲劇の中で、この「自己責任」について疑問を抱く。

真面目に働いていたのに暴力を受け、同僚の嘘で仕事を首になり、愛していた母親が実は・・・

そして希望であった父親にすら存在を全否定されてしまう。

アーサーは家族、仕事、普遍的な愛すら与えられることがなかった。

アーサーは何も与えられなかった。

そんなギブ・アンド・テイクすら行われない契約は破棄すれば良い。

誰もがそう思うが、この契約を破棄することは現代社会において「死」か「檻の中」しか道が残されていない。

これが社会的な圧となり、我々を格差社会のヒエラルキーに押し込めている。

 

が、アーサーはこのヒエラルキーを容易に破壊する術を知ることになる。

エリートサラリーマンを個人的理由で殺しただけであるのに、アーサーはゴッサムシティのヒーローになった。

誰もアーサーを知らないのに、殺人ピエロはヒエラルキーの下部層に圧倒的な支持、承認を受けたのであった。

アーサーは「現実の自分ではない自分」への承認が、承認欲求を満たしてくれるという暖かさを知ったのだった。

冷え切ったアーサーの体は、初めて温もりを感じることができたのだ。

これはSNS上で承認欲求が満たされ、次第に暴走して炎上騒ぎに発展する現象と似ている。

大抵はどこかで現実とのギャップに耐えきれなくなり、どちらかが暴走してすべてが御破算になるのであるが、アーサーは奇跡的に階段を駆け上がっていく。

 

アーサーは、偶像である殺人ピエロへ自らを近づけていく、いや、殺人ピエロこそ本当の自分であると思ったのだろう。

なんせ現実社会のアーサーは苦しみしか感じることができない。そんな契約に縛られるくらいなら、殺人ピエロになれば良い。

アーサーは、「アーサー」を捨てることにしたのだ。ヒエラルキーの末端に押し込まれながらも従順に契約を守っているアーサーを。

アーサーは、自分をアーサー足らしめる原因を排除していった。

アーサーとの決別である。

アーサーは復讐を始めた。復讐はアーサーをアーサー足らしめていた原因であり、それは細部にまで及ぶ。だから小人を助けたのである。ただの自暴自棄であれば、あの小人を殺しているだろう。

 

すべての排除が完遂し、アーサーがアーサーを捨てきった時、『あのダンス』が行われる。

あの至福の笑顔、恥を微塵も感じていない自信に満ちた踊り、自由。

アーサーは、偶像である殺人ピエロとなり、ゴッサムシティの無敵のヒーローになった。

それがJOKERである。

 

最後の決別はマーレイ殺しであった。

著名なコメディアンであるマーレイ・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)は、アーサーの憧れの存在であり、父親でもあった。

父親がいなかったアーサーにとって、マーレイは妄想上の父親であった。

そんなマーレイに番組出演を請われたアーサーは、殺人ピエロと完全に同化するかどうかをマーレイに委ねた。

しかし実際のマーレイはアーサーの恋焦がれる父親ではなかった。

厳格な社会の模範のような男であった。アーサーが求めるのは承認であり、父親を知らないアーサーにとっては無償の愛であった。

しかしマーレイは、番組と自らの社会的地位を守るためにアーサーを文字通りピエロとして扱う「敵」であった。

アーサーは自らを虐げてきた社会批判を行う。だがマーレイは、アーサーの境遇に微塵も敬意を払うことなく頭ごなしに否定する。

典型的なエディプス・コンプレックス像であり、それはアーサーの最後の砦の崩壊であった。

アーサーは殺人ピエロとなり、暴徒の王となるべく父親殺しを行う

 

暴徒の中で崇められるのはアーサーではなく、殺人ピエロとしての偶像そのものであった。

アーサーは死んだ。アーサーとは社会との契約に縛られた象徴である。アーサーは、人々の不満の元凶である社会との決別を儀式的に行い、あらたな理想郷へ導くモーセとなった。

 

アーサーは無敵の人となった。

社会から無敵となったのだ。

 

 

 

ラストシーンの意味

この傑作の監督は、まさかのあのお下劣ムービー『ハングオーバー!』のトッド・フィリップス。

ハングオーバー!もニヒリズムなブラックユーモアだらけ名作であるが、よくよく考察してみれば共通点も多い。

ブラックユーモアは、ハングオーバーにもJOKERにも簡単に変換できるのではないかと。

 

ラストシーンは、トッド・フィリップスらしさが出ている。

「まさかの妄想オチ」なのか?

二次会で雄弁に会社批判をしていた男が翌日何も覚えておらず、会社に遅刻しないように走って出社してくるような、そんなブラックユーモア。

 

ではアーサーとは?酔っ払いの夢?ラリってるときの妄想?誰かの夢?水槽の中の脳?

JOKERはエセ社会批判でありながら、人間の理性の危なっかしさを混じえてブラックコメディに仕立て上げた皮肉屋の妄想なのかもしれない。

そしてそう捉えられることにしてこの危ない映画を公開に取り付けさせた監督の処世術であったかもしれないし、もしかしたらハングオーバーの続編なのかもしれない。

結局、真実って何?

 

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『カメラを止めるな!』はゴスロリファッションで池上彰が消費税増税の説明をしているような映画

カメラを止めるな!

やっと見たよ「カメラを止めるな!

この時代にこの脚本を大真面目に書いた上田慎一郎監督とこの映画を作ったスタッフとこの映画にGOサインを出したお偉いさん全てに感謝の意を込めて宇宙に打ち上げるレビューを書いてみました。

 

 

 

 

壮大な学園祭ノリと2つの?

全体を通して、アマチュア感満載な空気を意図的に作り出している。

低予算、無名俳優、無名監督、この全てももはや戦略兵器だといえる。

見る側に与える「安心感」、アマチュアだからとあえてナメさせることで、前・中・後と全く様相が違いながらも同じキャストで違うキャラクターと空気を映すという、一度踏み外せば地獄へ真っ逆さまな複雑な作風をサラッと流すことに成功している。

これが有名俳優なんぞ使っていようものならば、一瞬で瓦解する。なんせ観客にちょっとした意図すら飲み込ませるわけにはいかないからだ。

 

まず前半の唐突なワンカット撮影シーン。

全編を通して、物語になっていそうでちょいちょい「?」な場面がある。

この「?」を「?」でとりあえず処理させないことには、後半パートへ観衆を導くことができない。

「?」を終始引っ張るためには、何の色もついていない画用紙を使うしか無かったのだ。ただ闇雲に書かれている画をスライドショーで見せられるのに耐えさせなければ、後半のパンチがクリーンヒットしない。

 

「?」は二重構造になっており、「脚本の?」と「全く意味不明な?」がある。

「脚本の?」はストーリー上で起こる不可解な点。人間の脳の認知的不協和に爪が引っかかる程度の?。

例えば都合の良いところに置いてある斧を手にするシーンなんかは、「普通の」映画を見慣れている者にとって不可解な点として受け取られるだろう。

「全く意味不明な?」は急に役者の演技が止まったり、何度も悲鳴を上げるシーンが続いたりする例のシーン。

あれなんかは本当に何が起こっているか理解できない。

この2つの「?」をタイミング良く打ち出すことで、「?」のまま映画は進行し、だがしかし「つまらない」とも思わせず、何が何だか分からないけど続きが気になるゾーンをウロウロする構成になっている。

 

中盤は作品の経緯を映す。

ここでは腑に落ちないシーンの数々が少しずつ回収されていくヘンゼルとグレーテル状態が続き、少しずつだが確実に観衆を引き込んでいく。

ここで巧みなのは、キャストのキャラクターの真実だ。たいてい変人で、何かしら爆弾を抱えている。この爆弾は手榴弾くらいの威力だが、後半パートで確実にこちらを仕留めてくる。

 

終盤、ドラマ撮影の撮影シーンが流される。

ここはもう見ているだけで良い。3時間くらい我慢していたかゆいところに飛んできた紙飛行機の先端が当たるくらい心地よい。

かなりの後出しジャンケンではあるが、見ているときにはなんとも心地よく、脳内をルンバが掃除してくれているようで安心できる。

 

 

三谷幸喜感

もうどう見ても三谷幸喜の『ラヂオの時間』の構造そのまんまである。

三谷幸喜の回収パターンの心地よさと満足感を、もっと強引でちゃっちゃと済ませてすでに打ち上げしているような映画だ。

爆発的ヒットしたのは、この回収パターンの説明臭さのないわかりやすい説明が老若男女問わず共有できるからだと思う。

よくよく見ると、ここまでストーリーの説明を懇切丁寧にしてくれる映画は無い。

まるで池上彰の番組を見ているようだ。例えるならゴスロリファッションで池上彰が消費税増税の説明をしているような映画だといえる。

 

三谷幸喜との違いは、「安心感」だろう。

とにかく三谷幸喜の映画は安心して見ることができる。

キャストもお馴染みだし、俳優のキャラクターをそのまま取り入れているからだ。

この映画はそこが全く違って、終始不安にさせながらも、後半怒涛の安心パックで送り出してくれる。

わかりやすくいうと三谷幸喜が「ハングオーバー! 消えた花婿と史上最悪の二日酔い」撮ったらこれに近くなるんじゃないかな?

 

 

 

まとめ

カメラを止めるな!

カメラを止めるな!

 

でもでも久しぶりに気骨ある邦画を見たような気がした。

邦画って昔はけっこう攻めていたよね?

今の邦画はノーアウトランナー1塁でもバントしかしない田舎のリトルリーグみたいになってるけど、この映画は2アウトランナー3塁で2ストライクなのにセーフティーバントやってくる感じだよね。

でも映画ファンはこういうの求めているんだよ。だからヒットした。もちろんこんな映画は9割は即死するのは目に見えている。

黒澤明はこれを莫大な費用かけてやってたんだから、どういう心臓していたんだろう。深作欣二は名匠と言われてからもこんなことばっかりやり続けていた。

だからこそ今でも名声が続いている。

上田監督にはこの姿勢を死ぬまで続けて欲しい。

この映画で儲けたカネ全部使って、怪獣映画とか作って欲しい。

 

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