人間関係に疲れた人は映画「恋の渦」を見て自分を客観視しよう!
「ダイノジ大谷のオールナイトニッポン」という暑苦しいラジオ番組があった。
今時の世に反する全肯定型批評番組であり、頑張っている奴を褒め殺し、埋もれている頑張っている奴を掘り起こし、暑苦しい奴を骨の髄まで語り尽くすという番組であった。
そのダイノジ大谷さんが超絶オススメしていたのが、「モテキ」でお馴染み大根仁監督「恋の渦」である。
パッケージからしてチープさが滲み出しているが、無名俳優、総製作費10万ちょい、撮影期間わずか4日というスペックで、口コミロングランを果たした怪物作品。
しかしである。この映画、ご覧のとおりちょっと借りるのに勇気がいる。
18禁コーナーにはないけれども、限りなく透明に近いピンクである。
だが安心せよ。
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いざ「恋の渦」へ!
DQNすぎる仲間たち
舞台は東京の狭苦しいアパート。
そこに集うのは見たまんまDQNな皆様。ほぼ全員がフリーター、犯罪まがいな仕事をしているものまでいる。
観衆はこの時点で彼らに嫌悪感を抱くだろう。だがそこで思考停止してはならない。
なんせ彼らは僕達の中にもいるのである。※その詳細は後半で
コウジ:EXILEみたいなチャラ男、トモコと同棲中。出会い系サイトのサクラのバイトをしている。俺様系で威圧的。脱法ハーブが大好き。
トモコ:コウジに心底惚れこんでおり、ほとんど言いなりの状態。コウジとのノロケ話を友人達に言いふらすなど、とにかく周囲の人間に情報を撒き散らす電通女。
カオリ:ギャルっぽい見た目通りのビッチちゃん。巧みなコミュニケーション術で男どもを誑かし、浮気をしまくる。
ユウタ:タカシと一緒に住んでいる。現在彼女がおらず、風俗をせっせと利用している。何かとウンコに行きたがる。
タカシ:自分がウザいと思われている不安から、誰かれ構わず「俺ってウザい?」と聞きまくるウザい奴。カオリに猛アタック中。夜でもサングラス。
オサム:不細工モヒカン。いじられキャラ。だけれどもプライドが異常に高い。
ユウコ:不細工キャラの背が高い女。
ナオキ:コウジの弟。イケメンでチャラ男。サイコパス臭い純愛思想を持つ、兄以上の俺様系。
サトミ:ナオキの彼女。おとなしいタイプ。
DQNヒエラルキーを生んだ多様化とゆとり教育
このメンバーが合コンするところから、映画は始まる。
ただの飲み会の中を巧みな演出で、このDQNたちのヒエラルキーを炙り出していく。
DQNのヒエラルキーは、意外にも勢力均衡している。
昔の不良漫画みたいなピラミッド型ではなく、ねちっこく絡まりあった複雑な構造だ。
これは僕達世代なら納得の構図。
なんせ今や突出した人物なんて「ゆとり世代」には存在しない。
出る杭は叩かれるのではなく、出る杭はリスクが高い。
ここには『価値観の多様化』と『ゆとり教育』がある。
多様化しすぎた現代では、かつてのようにピタッと人間を型にはめることができない。喧嘩が強くても、頭が良くても、スポーツができても、多様性の海の中では簡単な順位付けができない。
それは多様化により、たくさんのカテゴリー分けが生まれたからだ。喧嘩が強くても、ファッションセンスがダサかったり、笑いのセンスが悪かったりすれば、その部分では『負け』なのだ。
そんなたくさんの小さな勝ち負けにより、朧気な「キャラ」が形成される。
ゆとり教育は、競争という見えやすいカテゴリー分けを排すということであった。
勉強ではクラス順位が発表されず、運動会ではみんなで一緒にゴール、先生は怒らない。
これにより、競争のない、競争しにくい、可視化しにくい競争が跋扈する状態になった。
だからこそ、コミュニケーション力、『空気が読める』が唯一の尺度なのである。
KYやキャラといった概念もここに至る。
自分がいるであろう『キャラという与えられた場所』から出ずに、周囲の反応を伺いながら自分のすべき行動を考える・・・これが『空気が読める』である。
桐島、部活やめるってよはこのキャラに根ざしたヒエラルキーを高校生の教室カーストを題材に描いていたが、「恋の渦」はDQNオンリーでお送りするわけである。
桐島‐でもあったが、このヒエラルキーの空気の読み合いが激しいのが「上層部」「DQN」である。
下層部は決定的なキャラ(オタクなど)をすでに与えられてしまうから、そこから抜け出すことはできないが、逆に言うと平穏である。
※ここからの反抗を描いたのが桐島、部活やめるってよにも見られる。
そんな激しい空気の読み合いが、このDQN様限定「恋の渦」の面白さなのだ。
下心と情報戦
僕は高校時代、DQNでもなく、いじられキャラでもない、もっとも無害な立ち位置にいた。幼なじみがDQNの上の方にいたからだ。それだけでも、僕の「価値」は上がったらしい。だからそんなに空気の読み合いで辛い思いをした経験はない。
だから、DQNたちの激しい情報戦を鼻で笑いながら見ていた。そう、あの桐島‐に出ていた彼らのように。これも一つの「行動無き虚しい反抗」ではあったが。
DQNたちは基本的に男女入り混じった相関図の中での攻防が繰り広げられる。
基本的には男グループと女グループが主軸ではあるが、「恋の渦」のようにカップル同士がその環の中に組み込まれていたりと、友情と恋愛が入り交じる傾向にある。
これにより空気の読み合いの激しさが増すのである。
映画では、男の意地の張り合いと女の意地の張り合い、そしてカップル同士の意地の張り合いという3つの情報戦をいろんな角度から見せることにより、人物の葛藤を描いている。
この意地の張り合いこそ、空気、キャラ、ヒエラルキーを維持するための条件でもある。絶えず抗争状態なのだ。足の引っ張り合いだからこそ、常に意識して振る舞い、弱みを見せず、キャラに従順でなければならないからだ。
国際関係にも似ている。尖閣諸島の取り合いなんてまさにそうだ。中国は国内向けにも国外向けにも意地を張らなければ、その巨体を維持できない。だからこそ、無意味な挑発を繰り返す。アメリカもそのキャラのためには、くだらない挑発に黙っていることはできない。日本はその中間でアメリカ寄りながらも、中国に強くものが言えない。
北朝鮮があれだけ滅茶苦茶やっても大国が強く言えないのも、この勢力均衡のための皮肉であり、北朝鮮自身の矛盾であるように。
平和=勢力均衡のための戦争が必要なのだ。
DQNは細分化された戦い、市街戦を戦っているのだ。
1ブロックの取り合いのために死力を尽くした「スターリングラードの戦い」さながらの局地戦である。
なぜここまで激しさを増すかというと、DQNには強力な下心があるからだ。
理性がなければ人間の欲求には勝てない。悲しいかなDQNは欲求に従順でもある。
自らの所属するグループのヒエラルキーも大事だが、股間の方も同じくらい大事なのだ。
ここで「馬鹿じゃねえの!」と思った紳士淑女たち!あなた達はその生存競争から逃げたんだよ!DQNは原始の時代から続く、本能という闘争から逃げようとはしない、一種の超人なのだ。
「恋の渦」の戦い
※ここからネタバレ
冒頭の合コンを境に、彼らの平和=勢力均衡が崩れ始める。
①コウジとトモコは、ナオキの彼女サトミが場に馴染めなかったことが理由で喧嘩を始める。
②タカシがカオリに告白したことで、ユウタが苛々していく。実はカオリは以前ユウタと付き合っていたのだ。カオリはユウタへの当て付けで好きでもないウザいタカシをたぶらかす。
③ナオキは合コンで出会ったカオリと浮気関係になり、サトミがナオキの浮気を疑い出す。
④オサムとユウコがこっそり付き合いだす。
この4つの関係により、脆い彼らの繋がりが乱れていく。
特に印象的なのは、④のオサムとユウコの関係だ。
オサムはモテないのにプライドが高い。ブサイクなユウコを当て付けられたことで怒ってはいたが、下心によりユウコと結ばれてしまう。
ユウコはおそらくキレイな友人達に囲まれていたせいで自身の容姿へのコンプレックスが強く、そんな自分を愛してくれたオサムにゾッコンになるのだ。
だがオサムちゃんは、目先の下心に負けてユウコと付き合ったことが友人達にバレてしまうことへ恐怖を感じていく。プライドが高いが故に、初めてできた彼女であるユウコへの愛より見栄を取ってしまう。
そんなことも知らずにユウコはオサムに好意を語るのだが、それは火に油を注ぐ行為でもあった。
オサムはユウコに辛く当たり出す。
オサムはヒエラルキーに囚われ過ぎたあまり、本当に大事なことよりも、友人達の評価を気にしてしまう。
ここがリアルすぎて僕は悶えた。
モテないってのはこういうことなんだよ!幸せになれないんだ。
異常に高いオサムのプライドは、謂わば自らを守る盾なのだ。オサムは盾無くしては、友人達と付き合えない。かと言って友人達に嫌われるのはもっと怖い。
そこにオサムの意思はない。
小さなヒエラルキーにオサムは完全に乗っ取られているのだ。
ここにゆとり世代、いや現代人の孤独がある。
意識高い系やコミュニケーション力なんて言葉への執拗な口撃も、この孤独感の裏返しだ。
小さなコミュニティに囚われていることへの苛立ち、かと言ってそこから抜け出す勇気もない。SNSでリア充アピールするのも、友人関係を苦に自殺したりするのも、すべてこの孤独感=アイデンティティの喪失があるような気がする。
さらにユウタへの思いに内心揺られているカオリと、サイコパス的なナオキの会話もたまらない。浮気ばかりしているのに、純愛を恥ずかしげもなく語るナオキ。それに良いように扱われており、しかもそれで納得していると決めつけられているカオリ。
だがカオリは素直になれずユウタへ厳しく当たり、その感情が理解できないユウタはまたデリヘルを呼ぶ。
そこに現れたのは・・・
またまた俺様系のコウジは、ものすごい裏切りにあう。
言いなりであったトモコがいとも簡単に自分の元から離れ、しかも真面目そうな男を連れてくる。男は如何にも社会人という感じで、大人な対応でゴリ押ししていく。
いつも高圧的なコウジは、この大人な対応のため、目の前の弱そうなダサいサラリーマン風の男に何も言えなくなってしまう。
ここがかなりリアルであった。
結局DQNというのは、大きなヒエラルキーに組み込まれると最下層なのだ。
DQNを括ってそういうのは良くないかもしれないが、コウジは27歳にしてバイトしているヒモ男である。
一旦、小さなヒエラルキーから出て巨大な社会という最強の世界に立たされると、彼はただ黙って無条件降伏するしかない。
コウジは結局わかっているのだ。自分がどうしようもない負け組であると。
そしてこの辺りで始めに馬鹿にしていた彼らの関係を食い入って見ている自分がいる。
そう、これはDQNではなく、現代人の誰もが当てはまる体験なのだ。
DQNというステレオタイプにして一番自分から遠そうな存在が、実は自分にとても近いということに気づく。
ここが演出の妙技であり、この映画最大の見せ所である。
彼らは我々と一切変わりない。
劇中にも事あるごとにさっきまで仲良くしていた友人達を馬鹿にしている描写がある。
対する人物に合わせて、仲間を裏切ってまでも、自らを演出しているのだ。
これってだれにでも当てはまるだろう。
さっきまでペコペコしていた上司の陰口を言ったり、頑張っていたけど失敗した人を嘲ったり、一発屋の芸人を見下したり、町でオラついてるDQNを馬鹿にしたり・・・
これは現代の病気なのだ。
誰も彼も自分をしっかりと見ていない。
巨大な社会と小さなコミュニティの中で演出している自分を守るために、意味もないことに精を出している。
誰もが本当の自分を見ようとはしない。
そこに現代の生きづらさがあるような気がしてならない。
まとめ
パッケージに騙されずに、ぜひとも見ていただきたい良作である。
しかし、ここまで金をかけずに良い作品が撮れるなんて!
そしてこの映画や桐島、部活やめるってよが人気になっちまう現代ってなんなんだよと泣きたくもなる。
まあ、こういうのが嫌で世界一周してきたんだから、僕も同じ穴のムジナだが。
でも旅に限らず新たな挑戦をすることは、こういった偽りの自分を客観視できて非常に良いと思う。
「自分はちっぽけだ」なんて素直に思えるのは、非日常的空間でしかありえないはずだ。
うつ病になるまで仕事をしたり、友人関係に振り回されたり、ましてや自殺しようとするなら、一度非日常的な世界で自分を客観視してしまえば良いと思う。
「恋の渦」が映しだしたのは、「小さな世界でのたうち回る人々の滑稽さ」である。
そんな世界を映画という媒体にして、観客に客観視させたのだ。
そこにこの映画がヒットした理由があるように思うんだ。