反システム的生き方は幸せか?それとも自己満足か?
nounai-backpacker.hatenablog.jp
豊かなのに生き辛い現代社会。
その原因は現代社会を動かしている「システム」であるというのは、↑の記事で述べた。
システムがなにかというのを簡単にまとめると、
・システムとは現代社会や資本主義経済を円滑に管理運営するための構造。
・システムが生んだ科学技術や様々なルールにより、(表面上)社会は安定している。
・しかし現代社会は、人間のツールであったシステムが、自らのために人間を操作している。
このため、自分の思考や行動が「システムにより操作されている感覚」が強い人間は、生き辛さを感じているのではなかろうか?と僕は思う。
主体的に行動しているように見えて、実はシステムにより操作されている。これが見えない抑圧としてのストレスになり、日々我々の体や精神を蝕んでいる・・・と。
今回は、そんなシステムに反抗して生きるにはどうするか?そもそも反システム的生き方は幸せなのか?を考えてみたいと思う。
システムに埋没した生き方は幸せか?
すでに述べたとおりの、「人間は巨大なシステムの歯車の一つとして生かされているというマトリックス的世界観」を前提として話を進めよう。
そもそもだが、システムに埋没して生きるということは決して不幸ではない。
システムとはホモ・サピエンスが作り出した安全のツールであり、システムは巨大な集団を形成するためのものであった。
人間は一人では生きていけず、家族単位では生産性が低い。集団になることで、狩猟の成功率が上がり、農業が生まれ、都市化することで共同体としての国家が生まれ、そこでは哲学や技術や科学が生まれた。もちろん宗教はこの過程で非常に有効な「システム」であった。
現代社会はそこからねずみ算式に発展し、人々は飢餓や伝染病や暴力から守られた聖域を手に入れた。
システムは、人間が集団で暮らすために生まれ、発展していくことで個人の安全などの欲求を守るツールにもなった。
だが複雑化した現代社会のシステムでは、その代償として我々は「何か」を生贄として捧げたのだ。
この「何か」とは、真の自由であったり、ゼロからの思考であったり、野蛮な行為かもしれない。とにかくこの「何か」を失った代償は、システムが施した恩恵と天秤にかけることでしかわからない。
システム内で成功した人は間違いなくシステムを信奉しているだろう。現代では、起業や経済的成功したシステム内での優等生はもちろん、ただ豊かさと安定を享受できただけでも幸せだと感じる人もいるだろう。
だがシステム内の抑圧を、自己の否定や非主体感やシステムからの疎外と受け取っている人はどうだろうか?
我々は異民族の襲撃や理不尽な人権侵害から守られるために、自分を売り渡したのかもしれない・・・と。
システムは万民の幸せのためにあるのではない。システムは日々進化発展していき、円滑効率的に管理され、バグを修正しながら、その支配を拡大している。
システム内での競争は、システムをより発展させるので善である。
犯罪や抜け駆けは安定的な管理のための阻害因子であるため、法律や倫理によって悪とされる。
ではシステムに疑問を持つことは善か?悪か?
反システム的生き方とは?
そこで反システム的生き方について考える。
反システム的生き方は善悪二元論では語れない。なぜなら善悪の判断は、システムが行っているからだ。かつてシステムのルールは神の教えや聖書に書かれていた。現代は六法全書に書かれているようだ。
ここからは代表的な反システム的生き方を書いてみよう。
システム外への逃避
反システム的生き方の代表的な事例は、やはりヘンリー・ソローの『森の生活 ウォールデン』だろう。
ソローは、ウォールデン池畔の森の中に丸太小屋を建て、自給自足の生活を2年2か月間送る。この本は、この時の体験の回顧録である。
現代的にいうと、都市から離れ、電気やガスといったインフラから離れ、資本主義経済から離れるといったところか。
特に現代で最も困難なのが、この都市インフラから離れることだろう。スイッチひとつで火や灯りがつく。蛇口を捻れば水が出る。一年中同じ気温で過ごせる。
しかしこのインフラを使用・維持するためにこそ、社会や政治があり、金を稼がなければならない。便利さのために、人々はコストを払っており、そのコストを払うためにシステムの歯車として働く羽目になる。もちろんそこには環境問題や原発などのリスクもある。
実際、『ぼくはお金を使わずに生きることにした』のような現代版アーバン森の生活という名著もあるし、『ぼくたちに、もうモノは必要ない』というミニマリストのような少し易しめの反システム的生活もある。
しかし、現実的にシステム外の生活というのは不可能に近い。
なぜならすでに世界のほぼ全てをシステムが覆い尽くしている。完全なシステム外となれば、それこそ究極の秘境やアクセスが異常に悪い辺境しかない。
このシステム外という圏外を専門としているのが、冒険家である。
冒険家角幡唯介の著書で、脱システム=冒険という考えが記してある。
角幡氏曰く、世界でシステム外はほぼ存在していない。かつての冒険家が目指したシステム外はほとんど死滅したのだ。
冒険家はその中で、脱システムという新たな冒険に能う場所を目指している。
角幡氏は『極夜行』で、一日中真っ暗な極夜のグリーンランドで、(ほぼ)システムの息が少しでもかかった道具すら持たないで冒険をした。
結局、システムの外とは、もはやこのレベルの世界なのだ。
システム外を求める若者を描いた『荒野へ』は、もう少し我々に近い感覚があるが、悲劇的な最後を迎えてしまう。
システムの中で反システム的な体験をする
一番身近な反システム的行為とは、「趣味」だろう。
現代人はせっかく稼いだ金を使い、せっかく得た安全の枠から自らはみ出して、趣味を楽しむ。
例えば登山。先人たちは、移動の中で不便な山や峠を越えて歩いていた。そんな苦労と非効率性を無くすために、道路や車や飛行機が生まれた。
なのに、人は今や道路や車や飛行機を駆使して、その山に向かっていく。
スポーツもそうだろう。野生動物は、生存に不要なエネルギー消費はほとんどしない。満腹なライオンは、目の前のウサギを襲うことはない。
DIYや料理などもそうだ。これだけ効率的な生産体制が構築され、ネットで高品質なものが買えるようになったのに、人々は無駄な労力をかけて作業に没頭する。
この危険や非効率な体験に、あえて挑むことは反システム行動だといえる。
システムは完全無欠の効率化された生産体制を作り上げるのに躍起になっているにもかかわらず、人々はあえて非効率な体験をするのだ。
あの全体主義的共産主義体制ですら休日や余暇は認められたところを見ると、効率化のための息抜きかもしれないが。
しかし趣味に危険な行為や無駄な作業が多いのは、安全で安定的で効率化重視の予定調和すぎるシステムの理想へのアンチテーゼとして映る。
反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか
- 作者: ジョセフ・ヒース,アンドルー・ポター,栗原百代
- 出版社/メーカー: エヌティティ出版
- 発売日: 2014/09/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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だが、こんな趣味も結局はシステム内の『消費』となっている。
ジョセフ・ヒースの著作では、この反システムな行動をすることで自己満足している人間を冷ややかに笑っている。
詳細は「生き辛さは社会システムのせいなのか?」に書いたので参照あれ。
簡単にいえば、反システム的なライフスタイルは、「自分はシステムの中にどっぷり浸かっているヨレたサラリーマンじゃねえよ」という称号(記号)を見せびらかすために、人は反システム的なモノやコトを消費している。結局はシステム内で広告により作られた商品を買わされているだけなのだということだ。
最近のアウトドアやSUVブームなどはまさにこれで、何年周期でリバイバル消費されている。
まあかく言う僕もどっぷりこれにハマっているわけだが(笑)
結局、システムの中で反システム的な体験をすることはただの消費でしかない。
しかし、これにより平日のシステム内での労働から一瞬でも解き放たれるのであれば、そしてそれで生活の質が上がるのであれば、どんどん消費するべきである。
昨今は、何かとコスパや情弱といった後出しジャンケンが世に蔓延っているが、結局の所、生活の質が上がればよいわけでシステム内で生きることのストレスが少しでも減るのであれば、趣味を楽しむことは非常に有益だと思う。
なんせ趣味は、反システム的な意味を持っていれば何でも良い。逆に趣味を仕事にすると長続きしないというのは、その趣味を反システム的な意味で始めたからだろう。
反システム的なシステムを作る
逆に反システム的なシステムを自分たちで作ってしまおうというもの。
よくわからない抑圧的なシステムに埋没するよりも、詳細までよくわかるシステムを作れば主体性のある満足度の高い生活ができる。
雑誌『ソトコト』にあるような地域コミュニティ作り的柔いシステムがまさにこれだろう。
別に新たなシステム内だけで完全自給自足のコミュニティを作れというわけではなく、反システム的なコトとしてのシステムである。
ヒッピーやポル・ポトの理想郷のようなコミュニティは実現不可能だが、このシステム内ミニシステムであればSNS時代とも親和性が高い。
これは最近流行りの複業や副業も当てはまる。
会社という完全なシステムから離れたところで、自分のシステムを作る。
これは一つの会社(収入源)に支配されていることへの拒絶感・ストレスを、うまく昇華するパターンだ。
「巨大なシステム内の象徴的なシステムである会社」から離れた「小さいが主体性のあるシステム」を作ると、副収入というわかりやすい形で満足感=主体感を得ることができる。
最近の地域コミュニティや副業ブームも、この主体性がある反システム的な側面が理由の一つだろう。
趣味のような反システム的な活動は、結局の所「消費」でしかなかった。
しかしシステム内にシステムを作ることは、自己満足でしかないかもしれないが、そこには「生産」がある。
0から1を産むというのは、システムに覆われた社会の中でなかなか難しいからだ。もちろん実質は0ではない。しかし、システムに与えられるだけの人生ではないという反逆は、たとえシステムの劣化版であったとしても、そこに主体感を見出すことは十分だろう。
生産とは、今までは起業するか芸術家になるかしかなかった。
だがこれはシステム内での闘争を意味する非常にハイリスク・ハイリターンの弱肉強食の世界だ。
しかしインターネットやSNSのおかげで、システムを作るというハードルはかなり下がっている。
かくいうこのブログも、月1000円くらいで運営できている(通信費+はてなプロ)が、まあまあの収益がある。
これでシステムにおける不毛な労働で辟易している僕の承認欲求が満たされるのだから、良い世の中になったではないか。
システムが生むストレスの中で、「承認欲求」の影響が非常に大きいと前の記事でも書いた。
現代社会では、すべてが相対主義であり、個人はシステムの歯車として何者でもない何かになってしまった。
人々はアイデンティティを失い、自己の存在を掴むために、消費しSNSのいいねをかき集める。
システムは、この承認欲求を購買意欲に変え、消費を促しますます肥えている。
生産は、この伝統的な資本主義経済へのアンチテーゼであり、何者でもない何かでしかない自分の足場になってくれる承認なのである。
いうなれば、この自分(達)のシステムを作るということは、システムの中で自分を見失わない/自分の存在を主張するための反抗的行動なのである。
だからユーチューバーやブロガーは広告宣伝も含めた自己喧伝に勤しむ。アメリカの黒人ラッパーのリッチアピールもそうだ。
システムに反抗し、そこで得た承認が『マネー』であっても、それが自己承認欲求の満足に繋がり人はそこに憧れる。
ティーンエージャーが彼ら彼女らに憧れるのは、『確固たる個』というブランドなのだ。
「反システム的手段で真面目にシステム内で勤しむ人々より遥かに稼ぐ」
これこそ、最高の反システム的な行為ではなかろうか。
ユーチューバーが流行る現代の闇もそこにあるような気もするが・・・
システムに操作されずに生きる
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システム外へ逃避することは現実問題不可能であり、趣味や生産活動をしてシステム内で生きることを慰めるというのは妥協的ながら現実的な作戦だろう。
だが逃避も妥協も、結局はシステムの影響下にある。逃避はシステムを意識しすぎる傾向にあるし、趣味や生産活動という妥協はシステム内で最も強固な経済に支配・操作されている。
あとはシステムを意識しないで生きるという道が残されている。
上記リンクにある原始仏教的な反応しない生き方というのは、このストレスフルな社会において有効なライフハックである。
原始仏教は、宗教というよりライフハックに近い。(経済活動を促進するため)情報過多で刺激の強いシステム社会において、それにいちいち反応していると最終的に支配されるか疲労して諦めるかになってしまう。
『反応しない練習』では、ブッダの教えである「感覚を客観的に観察する」方法で、無益な反応をしないことを勧めている。
現代社会のシステムでは、個人においては承認欲求地獄に陥り、環境においては広告により反応を喚起させ行動を操作されている。
反応しないことは、無視ではなく、反応している自分を見つめることだ。
イライラしても、「あ、今自分は怒っているな」と観察することでそこから無駄な妄想の連鎖に囚われなくなる。
仏教だけでなく、ある種の宗教はこういったシステムと距離を置く教義を説いているものもある。
また宗教以外でも、哲学や心理学はシステムが何なのかを観察する学問でもある。
システム内で操作されることを意識しすぎることは、逆に反応→妄想→ストレスというような負の連鎖を生んでしまっている。
システムを客観的に観察し、主体的な思考や行動を見失わないようにしながら、システム内で合理的に生きるというライフハックはこの時代非常に重要な視点だ。
この思想はシステムの繁栄と平行進化してきたともいえる。資本主義真っ盛りのアメリカでヒッピームーブメントや禅が流行したように、システムの生む反作用としてのカウンターカルチャーはいつの時代にも存在した。
たいていはそれを政治運動のように大げさに担ぎ上げることで、結局はシステムにより新たな消費財に錬金させられてしまったが。
『嫌われる勇気』や『反応しない練習』やマインドフルネス瞑想などの自己を客観視するというライフハックが流行しているのも、結局は人々のそうしたシステム内での生き辛さが影響しているだろう。
結論:反システム的生き方は幸せか?自己満足か?
今まで見てきたとおり、脱システムやシステム外といった生活はもはや不可能である。
現代社会での生き方は4つしかない。
①システムの中で競争に打ち勝つ承認欲求を満たす
これは起業や経済的成功であり、システムとしても奨励すべき善行とされている。
システムが用意した枠の中で、システムが好む=成功という物語の中で名声を得て承認欲求を満たす。
ハイリスク・ハイリターンだが、学校教育からメディアからもはや道徳までもがこの物語の上に成り立っている。
②システムに埋没して生きる
豊かさ便利さ安定のために、システム内で確信犯的に埋没して生きる。
リスク管理を徹底しさえすれば、誰しもがある程度幸せに暮らすことができる(人災や天災を除く)
その代償として、自己の主体性を売り渡し、何者でもない何かとして生きることになる。
日本の教育はこの②を量産するために存在している。
③反システム的生き方を妥協的に利用して楽しく生きる
趣味や生産活動をすることで、システムだけに囚われない、自分だけのシステムを生み出す。
それが例え完全にシステム内の活動であろうとも、反システム的生き方として妥協的に楽しむ。
現在はこの反システム的生き方こそ、本来の生き方だと言わんばかりの流行を見せているが、それは固くなった財布の紐を解く手段に過ぎない。
反システム的生き方でちょうどよい息抜きができるならば、システムの安定と共存することができ、一番良い所取りでもある。
④システムと一歩離れた場所を作る
システムに囚われたり、逆に意識し過ぎることなく、客観的に自己の存在を認める。
そのためにはシステムが生み出す情報に反応しないことが求められる。
宗教でも哲学でも良いので、自らの確固たる立脚点という場所が作ることができれば、無益な妄想に囚われることなく生きていくことができる。
でもこれができれば誰も苦労しない。
割合でいうと、①10%、②40%、③50%、④ほぼ0%といった感じだろうか。
もちろんこの4パターンの厳密な分け方はなく、グレーゾーンの人も大勢いるだろう。
またTPOで生き方を分けている人もいるだろう。
だが結局は、全てがシステムの中であり、我々が何をしようとも結局はシステムの掌の上であり、ただの自己満足なのであろうか?
究極的な結論
そんな空虚な世界を否定したのがマルクス・ガブリエルだ。
若き哲学者である彼は「世界は存在しない」と説く。
「世界は存在しない、なぜなら全体を包摂して俯瞰する立場など論理的に存在しえないからだ」とし、世界像といったものを否定する。この中にはポストモダン的な何でも良くてどうでも良い世界=相対主義も入っている。
マルクス・ガブリエルは、世界はなくただ「意味の場」が存在するという。
「世界とは、すべての意味の場の意味の場、それ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場である」
哲学的な言葉であるが、僕はこの言葉が誰も把握できないくらい肥大化複雑化したシステムに対する答えだと思っている。
システムは自己を認めることができない人間を量産する。それは労働者と消費者にうってつけの存在だからだ。
強い個性のない人間は、黙ってシステムのルールの中で働かせることは簡単であるし、自分の存在がよくわからなければ広告や商品を使って消費財で着せ替えてやれば良い。
人々は、システム=世界を盲目的に対峙することで自らの存在を損なっているのだ。
ここでいう「意味の場」とは、システムの関係ない存在である。
存在は他者や環境からでしか認めることはできないが、「意味」はそうではない。実際にそこにあるからである。ユニコーンは存在しないが、ユニコーンの意味は存在する。でなければ誰もユニコーンを知らないはずである。
「意味の場」という存在は、この無限に広がる世界という前提を破壊する。
究極的な結論として、反システム的生き方とは結局はシステムの中の一コマでしかないが、しかしそこに意味があれば良い。
システムに決められた幸せの尺度でなく、システム内の人間の冷笑的な自己満足でもない、確固たる自分の存在があれば良いのだ。
これはシステムの一切介在しない状態としての存在を問うことである。
まずはあらゆる概念や前提を破壊し、ゼロの状態からスタートすることが本来の生き方である。
これはシステムに囚われた反システムや脱システムやシステム外ではない。
凡人としての結論
といったところで、そんなことは難しい。
僕のような凡人は、④の生き方すら不可能である。
システムの巧妙な支配の手は、日常のあらゆる瞬間に入り込み、もはや概念や思考の一部となっている。
ということで、僕の思う幸せな生き方、苦しまない生き方は、③と④のハイブリッドである。
僕が思う現代社会の反システム的生き方で自己承認欲求を満たしながら経済的に安定して暮らせているのは・・・この人だろう。服部文祥先生である。
有名登山家であった服部文祥先生は、現代登山(それこそ超システム的)に疑問を持ち、単独で最低限の装備と食料だけを持って奥深い山に入り、自分で動植物を狩り、捌き、食って糞するサバイバル登山を構築した。
銃で鹿を撃ち、ナイフ一本で捌き、焚き火で調理して食う。これを自然の中で唯一人で行う。
ただの反システム的趣味ではない。システムを極力排除しながら、哲学的にそのスタイルを作り上げていく。
角幡先生の『新・冒険論』では、脱システムの場からシステム内の事を考えると色々なものが見えてくるといっていたが、それを地で行くスタイルである。
サバイバル登山では、至って普通のシステム内(5人家族、住居は横浜、仕事は登山雑誌編集&ライター)から、システムの排除された世界(といっても国内の普通の山)へ行き来し、そこで自然とフェアな環境に身を置く。
聖と俗を行き来することで、システムとはなにかを考察し、それをまたサバイバル登山で止揚していく。
これは③のシステム内の反システム的行為であり、④のシステムを排除した意識により主体的に生きているといえる。
システム内にありながら、システムから脱した主体的行動をゼロから創設し、それを日々試行錯誤しながら対峙していく。
こんな人って他にいるだろうか?
服部文祥が凡人というわけではないが、この生き方というのは実は誰にでもできる。
別に狩猟生活をしろという意味ではなく、システムを意識しないところまで昇華した生き方に達する何かを見つけることができればよいのだ。
ただの消費でしかない趣味でもなく、システム内の新たな歯車としての生産活動でもなく、システム内であってもシステムを意識しない「抜け道」である。
これは正解がない。正解はその人自身の中にしか無い。天職というのが一番わかり易いかもしれない。
それがシステム内での成功に繋がれば尚良かもしれないが、そうでなくてもその人がシステムにとらわれない自由を満喫できれば良いのだ。
この答えは、とにかく行動するしかない。知識を広め、あらゆる可能性の中から、自分の道を自分の意志で手に入れるのだ。
ゴッホはまさにその道にあったと思う。ゴッホは生前誰にも評価されずに発狂し、そして自殺した。だが、ゴッホは無念であったか、後悔があったかもしれないが、自分の道だけは見つけることが出来ていた。あれだけ人生を賭けて挑戦する「何か」を見つけることが出来たのであれば、人は自らを認め、生きていくことができるであろう。
それが悲劇的な死に向かう道だとしても。
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